学校は必要なんだと思う。なんかどうしよもないものに抑えつけられている必要がいくらかあって、その役割が学校なんだと思う。だから、なんだかんだぐだぐだ文句がありつつも、学校とか教育なんて変らない。ぐだぐだ文句を言うために学校があるんだから、そうだよなぁ。問題意識を育てるためにあるのかもしれない。

楽しくて、幸せでありたいと思うと同時に、そうなってはいけないような意識を感じている。そこでは思考停止が幸せなのかなぁとも思う。幸せなときに、なんか創造的なことってできるんだろうか。欲張りならできるかもしれない。なってみないとわからない。でも何もしたくなくなる気がする。

全く逆のことも常に考えてる。それはこれまで、いつも書いてるようなやつ。たまにはいつもと逆のほうを肯定してみる。

みんなが今の世界や、社会を望んで生成してるとかそういうアレで、全部、既に思い通りだということを考えてる。でもあんまり自分はそれを信じてない。だって、高校生活はホントにつまらなかったんだ。結果的によかった、とか、あんまり意味がない。それこそ、なんのために生きているんだろう。辛いことやってれば幸せか? 過ぎたことはいい。


よくないことを書くかもしれない。

努力は報われるだなんて宗教がはびこってて、熱心に信じている人がいる。悪くないけど、そんなに頑張る必要って、あるんだろうか……努力とかいう、辛いことを積極的にやろうとすることができないで生きてる。勉強しないで高校に入って、勉強しないで大学に入った。

辛いことを、楽しいことに変換できる人が羨しい。楽しいことまでいかなくても、少なくともやる気になれるのが羨しい。呼吸をするように努力をして、その努力がまわりに認められる人は、すごく充実しているんだろうなぁ。

でも、努力しようとして上手く立ち回りかたを知らない人が中にはいて、そういう人たちは、努力をして、どうにかしようとはするんだけど、やればやるほど、うまくいかないのだ (多少、知識や技能はできるようにはなるだろうけれど、それが「努力」に見合わないのだ)。

「上手く努力できる才能」っていうのがあって、そういう人には努力しないでなんちょれ、という風にとらえてしまう。そして強い人や、偉い人は、だいたいそういう人だ。

幸い (?) なことに、自分は中間に位置していて (いつでも自分は普通の位置である)、努力する才能はないけれど、努力する気もなかったので、どうにかやっていけている。誰かが「努力」をしないで幸せになれることを、努力ができない人に、証明しなければならないと思う。だめだったら、それはたぶんそういうもんなんだと思う。あんまり深刻に考えているわけじゃない。最悪のケースのシナリオは絶対に裏切らない。

キチガイがわめいてるように見えるだろう。怒られるかもしれない。まぁ実際、夜中に奇声をあげたりとかよくあるわけで、なに考えてるかなんて、わかってもらえないんだろうと思う。


努力って言葉は便利だなぁと思う。「頑張れ」に似た便利さだなぁ。あたりまえか。努力しろっていうのと頑張れってのは同意だもんなぁ。

努力ってことにしておけば、あとから、辛いことをやってしまった自分を正当化できる。素晴しい言葉だなぁ。

僕は高校三年間努力して大学に入りました。どうしても原子周期表が覚えられなくて、補習をうけることになったりもしました。英語の単語テストで良い点数がとれたことはあまりありませんでしたが、一度だけ高得点をとったことがあり、そのときは先生に「やればできるじゃん」と言われ、嬉しかったです。でもそれからまた良い点数がとれたことはありません……

数学がどうしてもできなくて、文系に進路を変更しました。僕は小学校のころから理科が好きだったので、自分にはそういう道が向いていないと思いショックでした。でも文系の勉強は辛かったですが、頑張って本を読みました。それまであまり本を読むのは好きではありませんでしたが、頑張って読んでいるうち好きになり、今では自分で積極的に本を買うほどになりました。

とか。努力をしたとか頑張ったとかいう以外は嘘はついてない。

うーんでも、もうちょっと、言いたいことは、違う。もう寝よう。矛盾してるとか思うだろうけど、努力は全てむくわれるべきだと思ってるんだ。この場合の「努力」が、どういう意味を差しているかわからないけど


ながすぎ。もっと簡潔に書けよ。うざいなぁ。

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