だいたいの人は、幼稚園とか、小学校とか、物心がついたときから、環境を読みとって、立ち位置を判断して喋っている。空気読んでる。集団の中だと、普通はそうせざるを得ない。それをしなくて許されるなり、それをしなくて言われることを耐えられる強さなりっていうのも結局、ところどころで、環境が許している一定数で、それは運なのだと思う。「できる」ということの裏には常に、環境がそれをすることを許している、っていうことがある。


おれは極めて普通に育ってきて、思ったことをそのまま言うのは正しいことではない、環境・空気を読まないといけないと擦りこまれているから、本心では正しくないと思っていることを、行動してしまうことは多々ある。そのときの行動は、自動的で、自分っていうものがどうにかできるものではなくなってる。「どうにもできない」って考えることをやめればいい、という人がいるわけだけど、その「どうにもできない」と考えてしまうことが既に、どうにもできないことなのだ。そのときの無力な感じ、自動的な感じ、そして、その無力感さえもが、自動的なプロセスに組込まれている感じ、ループする。決定権なんて全くないように感じる。

それはとても希望がないけれど、いつも頭を過ることだ。意識というものさえ、化学反応の延長にあるから、反応を継続させていくだけの、自動的なことで、どうにもならない。「なるようにしかならない」はこれだと思う。

日記の文章さえ自動的に勝手に綴られるものだし、人工無脳がなんか喋っているのと何が違うのかわからない。

▲ この日のエントリ