外向きの諦めの早さと、内向きの諦めの早さは違うなぁ。外向きにはすぐ諦めて、あとは全部内側の問題にする。外に出してみるのは、そこで批判なりうけたとしても、内でそれをまだやりたいと思えるか、っていう判断の一つにすぎなくて、あんまり重要じゃない。そんなあんまり外側に意味とかを求めていないので、自分っていう機械が、自動的に、真剣になれるようなものをやっていければいいなぁ。

あとなんか、帰りに電車でずっと、どうやって書こうかって悩んでる文章があるけど、本当に全く書けないなぁ……他人にプッシュする文章って書けないなぁ。プルしてもらう文章はなんとか書けるけど、プッシュするのはすごく気持ち悪いんだよなぁ。相手はポジティブな評価しか基本的に受けつけないわけだし (というより、そうじゃないのを書くにはもっとエネルギーが必要で、そこまでしてどうにかしたいとは今、思えない。もっと簡単な方法を保険にしているからだけど)、全くもって賛同できなかったりするのが含まれているとどうしようもなく何も書けない。

なんていうか、あんまり環境を変えることを難しいと思わない。休学してなんかどうでもよくなった感じだ。どんなことになったって死んだら全てが終わるし、でも死ぬよりもっとリスクが少ない方法があるから、それならもうめまぐるしくいろいろやって、そういうことが全て、自然に生きていけるように、うまくいかないのならば、死んだらいいかって感じだ。そうやって生きてみて、ダメだったやつがいる、うまくいったやつがいる、っていうサンプルになれば、面白い自動的なアートの一つになる感じがする。参考にならないかもしれないですが、これが僕の人生でした、っていって死ねればいいと思う。ダメだったときは、助けてもらった全ての人へのお礼と謝罪を書いて、うまくいったなら、どういう人間が障壁になったらを書いて、そこに至るまでのことは、ずっと書いてきているわけだし、死ぬために更めて書きくだすために生きる必要があるなんてことにもならない。

君がここにいるためには……みたいな論じかたはなんだかあんまり興味をひかない。それならいいです、他の人がそこにいればいいです。別に僕でなくちゃいけないようなことっていうは、本当に全くない。だから僕は僕が満足できるように、僕の定める真剣さと誠実さを元に、徳を養い、もしその過程で他の人と関わる必要があるなら、そのときそのとき、効果を最大にする方法を考えればいいかなと思う。僕は誰かとなにか競争していくのはやめにしたい。

ちょくちょく他人に期待しすぎと言われてグサっとくるので、期待しないようにする。どうやって変えてくのかがむずい。

自己啓発みたいなの、他者から言われるととてもうさんくさくて、信仰を冒されている感じがする。自分は宗教信仰を一切していなくて、できないんだけど、そういう意味じゃなくても、なぜか「考えかた」とか「大切にしているもの」っていう風に表現すると、「そんなの捨てちまえ」とか軽々しく言えてしまう、とても嫌な感じの人達がいるので、おおげさでも、それが内側からの変化でのみ柔軟性を持つなら、信仰と言っといたほうがいいと思った。

成功した人には興味がわかないなぁ。悩んでないか、悩んでるレイヤーがシリアスじゃないんだもんなぁ。

夜中に三脚持って歩いてると怪しまれるし、カメラから結構離れないといけないときはいろいろ不安になるから、なんか解決方法が必要な感じがするけどノーアイデア