何度も書きまくっているけど、苦しくて辛い努力をしました! だから今楽しいです! っていうの、とても嫌いなのだ。そういうこと言わずにただ努力を続けている人もいるのに、環境によってそれが報われないことはあるのだ。でも彼らはうまくいっていないから「努力の結果楽しいです」とは決していえない。そういう環境にいることを変えよとマッチョはいうわけだけれど、どうしようもない状態っていうのはあるんだ。念のためにいっておくと僕はそういう状態になるまえにまず諦めるし、ついでいうと彼らに殺されるかもわからないぐらい僕は努力以上に報われすぎているだろうと思う。

不思議なことだけれど、努力は報われないっていうとてもあたりまえのことについて誠実にならない人がたくさんいる。これはどう考えたって真実なのに、直接的には誰も教えてくれない。少なくとも僕はそうだった。僕が小学校・中学校・高校の洗脳の中で気付けたのは自分で努力をしなかったことと、まわりには割と真面目に努力をする人がいたことによると思う。別に何か大きいことがあったわけじゃなくて、とても些細なことだ。

僕は努力は報われるべきだと思っているし、それは主観的な努力に比例すべきだと思っている。今の社会では、それによって誰かが僻むのかもしれないけれど、確実に努力が報われる社会ならば、僻みもなくなって純粋に日々を努めることができるだろうと思う。でもいまはそんな社会じゃないし、そもそも世界の構造的にそんな状態には未来永劫ならない気がする。

すこしむかしなら、「神樣が見てくれているから、誰も認めてくれなくても」っていうのも通用した。でも今はそういう宗教観はとても薄くなっていて、もっとリアルな、個人同士での承認やモノが求められている。あるいはそのむかしあったツールとしての「神様」の代替が求められている。

誰も見ていなくても誰かが、という視点からしたら、ウェブ日記なんかもそうなのかもしれない。誰かが見ていることのフィードバックのあるなしに関わらず書き続けることで、匿名の読者をツールとしての神様にしているのかもしれない。

どうだっていい。分析なんてどうだっていい。思っただけ。頭がわるいのに余計なこと考えてもしかたがない。

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