やっぱり飲み会とか好きじゃない。独りでアニメを見ながら「ひふみん可愛いデォユフフwww」とか言いながら酒を飲むのが最高であって、意識高い話をしながら酒を飲んでも特に何も産まれない。

これは切り替えの問題なのだ。酒を飲んでるとは難しいことを考えてはならない (MUST)。複雑なことをすると複雑な問題をひきおこす。

家で酒を飲んでアニメを見ていれば、酒臭くてうぜぇなみたいな話にはならないし、好きなように好きなような酒を飲んで好きなように酔っぱらって好きなようにインターネットがができる。辛い思いをする必要はどこにもない。


ツイッターとかフェイスブックとかを止めてるが、書きこみを止めているだけで、投稿はたまに見ていたりする。投稿を見た結果「やっぱ見ないほうがいいな」と思うが、投稿自体に制約を設けると「生きてる証明をなにかしらで示さなければ」と思う。そうすると (自分の中では) 価値のあるトピックでエントリーを書こうという気になる。この世界では、クソ短文で承認欲求を満たしてはならない。

何がいいたいかというと、「見ないことに価値がある」と思ってはじめてみたが、意外にも「見ても、反応・投稿しないことに価値がある」ということがわかったことだ。すべての情報は一度飲みこまなければ吐きだしてはならない、という制約をつけることによって、(自分の中では) より価値の高いものがアウトプットできる。


はてブもやっぱ見ちゃうことがあるけど、クソみたいな意識高い高いエントリについてる目線だけ高い高いブコメとか、おまえも同様にクソだろとしか思えない。クソがクソ叩いて喜んでる。クソがクソ叩いてるのを喜んでるクソがオレ。ブルーハーツって未だにテレビとかで曲がかかってすごいよなあ。弱いものたちが夕暮れ〜さらに弱いものを叩く〜。クソの連鎖。評価基準がクソなせいだと思う。ちゃんと作ってるか成長しているかが最重要。ウィーウィルベカームシルエッツ。


3D CAD をやってみて、やはりプログラミングを先にいろいろやっていて良かったと感じる。仕事で「プログラミングできて良かった」と思うことは極めて稀だが、趣味でいろんなことをしてみると全く「プログラミングをできて良かった」と思うことが多い。拘束とは制約プログラミングだと気付ければ難しいことが一切なくなり、便利さだけが理解できる。

「趣味」をバカにして「仕事こそが人生の意義だ」みたいなことを言うひとがいるが、全く間違いであり、そういう言い草は全く気にくわない。そういう人は単に仕事が趣味なのであって、趣味をバカにしている。趣味こそが全身全霊をささげるべき対象であって、仕事は単にそのために金を稼ぐ手段であるか、ないしは趣味で培った力の一部を社会に還元する行為である。


街には「地域ぐるみでなくそう路上喫煙」とか旗が立ってたりするが、喫煙者はすぐそばで路上喫煙をする。彼らは文字が読めないので仕方がない。対応策が間違っているのだ。喫煙者はなぜか人間として扱われているが、識字率99%以上のこの国で文字が読めないので、初等教育も受けていないことは明白であり、人間のような姿に見える他の生物である。JT とかいう独占企業があってモラルを啓蒙して「おれは悪くない」アピールをしているが、そもそも人間ではない生物にはモラルなどなく、判断能力のないそれに、中毒症状をいいことに薬物を売りつけるのが JT であって、今すぐにでも滅びなければならない。

不思議なのはそれのカタチが人間であるおかげで、人間として扱われれいて、人権が保証されているところである。人間は呼吸をしなければ生きていけず、空気の汚染は健康に直結する。それが環境を汚染して人間をいくら傷つけても、それが「薄く広い」殺人ならば罪にはならない。いくら薄く広く子供を殺して、あるいは子供以外の人間を殺してもそれは罪に問われない。どこから人権が生じるのだろうか? 人権のある生物から産まれれば人権があるのだろうか? 公共の福祉とはなんなのだろうか? 憲法に定められた「健康で文化的な最低限度の生活」における健康ってなんなのだろうか。「人民の健康が最高の法たるべし」ではないのだろうか? いったいそれにはいつ罰が与えられ、人間は健康に人生を過ごすことができるのであろうか?


(このエントリはクソよっぱらってクソのように世の中を思いながら書きました)

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