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生活に溢れているのだから、それを伝えなくてはならない
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人間ほんと嫌いだなあとつくづく思いました
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人間とのコミュニケーションは「貴重だ!」と思える程度の頻度でいい、それ以上は過剰
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自然の緑はディスプレイで表現できないんだから写真撮る前に記憶に焼き付けろや貴様
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趣味は散歩なんです (ひきこもっていたときは夜になると散歩していた)
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本当に、外に向いている人間って嫌だなあ。歩いていて、風景に在る人々っていうのは美しいのに、どうしてこう同じように呼ばれているモノが、ああも見えかたが変わるのか。
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ちょっと思いついたことがあるけれども、書けない。少々思い違いをしていたことあった。生活と孤独が重要なのであって、他人の役に立つとか立たないとかなんてどうでもいいことだ。
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集中して散歩しているといろいろ整理がついて面白い。散歩で四季を感じて、木がどうなったか、花がどうなったか、景色の変化、風がどうなったか、温度がどうなったか、体感の変化をしっかり。新緑のつややかな感じ、鮮かな色、肺に吸いこまれる空気の、土、水の匂い。ただ公園を散歩するだけだ。
整理、自然の生活に立ち還って、また、普段のいろいろなことに目を向けなおすと、大抵が本当にどうでもいいことだ。それでどうなった? それでどうなった? たぶん、たくさんの人が同じようなことを思っている、一方、たくさんの人が忘れている。とはいえ、たくさんの人とか、どうでもいい。
それで誰が幸せになったんだ?
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土曜日は15時ぐらいに起きて、それからまた寝ていた。
日曜日はひとまず外にでようと御苑に行ったら御所の一般公開の日だったので見てきた。前年行ったときより人が少なかったのでじっくりみれた。
その後、太田神社、上賀茂神社、久我神社へ行ってから植物園へ。途中雨が降りはじめたので早めに帰宅した。
月曜日 (休みだった) は、朝7時ぐらいに起き、また例のところに行こうと考えて準備をしていたが、雨のため中止して宇治へ行った。目的は宇治上神社で、ついでに宇治神社、平等院鳳凰堂を見てきた。
雨がとても強くて写真をよく撮れるような感じではなかったので、じっくり記憶に残してきた。宇治上神社は静かで質素な神社で、趣があった。本殿の写真しか見たことがなかったので、拝殿がないのかと思っていたけれど、ちゃんとあったし、拝殿も良かった。
平等院は修学旅行で行ったことある気がしていたけど、やっぱ行ったことがなかったっぽい。付属のミュージアムのデキが良くてびっくりした。あとあの屋根にある鳳凰は本当にかっこいい。
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星の肖像というか、そういう自然を写すものは、大変日常的なことに溢れて存在している。僕の中で「自然に」というのは「自動的に」みたいなのとほぼ互換であると同時に「自動的に」のほうが具体的な言葉なので、もっと自然に生きよ、というのは、もっと自動的に生きよということだと感じている。(自然に生きよ、というのが良いか悪いかはともかく、というよりも「自然に生きよ」というフレーズに対して、そもそもどう生きようがそうだろうと思うので、懐疑的だけれども)
五感を研ぎすます必要がただあるだけだ。
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そういえば、最初に伏見稲荷に行ったとき「なんで修学旅行でここに来ないんだ!」って思った。なんだか良くわからない衝撃をうけた。
それから何度か足を運んでいるけれども、毎回違う気持ちになる。山登って降りてくるか、途中でひきかえすか、別の道を行くか、とかいろいろあるので、おもしろい。
桜を撮るのがものすごく苦手です
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元気がない……
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やろうとしていたことができなかった
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今までちゃんと言葉にして意識はしてなかったのをちゃんと言葉にして意識するようにしよう。変数束縛
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人間vs自然みたいな構図の考え方がやはりものすごく嫌いだ。人間は自然の中に含まれているし、人間だって意志を持ってるつもりで、殆ど自動的、すなわち自然だ。そんなくせして、人間自身が人間を特別視しているというおこがましさに苛立ちを覚える。
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身近に自然の美しさなんてものはあるのだけれども (都会でも)、そういったものを見ないふりをしているのは、個性を求める没個性にイラ立つ感覚と全く同じだった。







































