コンピュータリテラシ

大学は一応情報系なのだけど、そんな「情報系」なんて呼ぶことが可能であっても、コンピュータがよくわからないとか、インターネットとかよくわからないとか、フィードって何とか、そういう人はいるわけで、じゃあもしかして他の学部であったりしたら、普段コンピュータを使わないとか、そもそもコンピュータをもっていないとかも普通にあるのだろうなぁとか考えだすと、グレープフルーツをまるかじりして皮の苦さに顔をしかめたい気分になったりする日もあったり、なかったり。

それはどうでもいいのだけれど、インターネットでブログや日記を書いていない人たちが、言いたいことを言いたくなってしまったとき、それらをどこに吐きだしているのか日々疑問だったりする。


無断リンク禁止

無断リンクについてここ最近はやっていたらしくて、「はー」とか「ほー」とか思いつつ殆ど読んでいなかったのだけれど、結局、無断リンク禁止禁止派の人であっても、無断リンク禁止の気持ちはなんとなくわかっているんだろうなぁとか思う。しかしながら、無断リンク禁止がひろがった結果それが「普通」になってしまうといろいろ困ってしまう (何が、かは誰かが既に書いているだろう) からちゃんと言っとかないとね、みたいな。(自分はどちらかといえば無断リンク禁止禁止派です)

そういえば考えてたけどまとまらなかった。この流行ってた話は、実際には無断リンク云々はあんまり関係ないんじゃないかとか思ってる。

自分もこう、あんま必要以上にリンクが欲しくないけど公開にはしときたいとかいう場合はいくらかあるけれど、公開したいのに閲覧を制限したいとかいうアンビバレンスはもちろん矛盾しているわけで、結局どっちを優先するか、ってことなんだと思う。

公開して望まないことを受けいれるか、制限 (たとえば Basic 認証だけでもそれは十分達成可能だったりするから、技術的にはそんなに問題じゃない) して、予期しないを嬉しさを捨てるか (それはインターネットの「楽しさ」の多くを奪うだろうけど)、とかなんとか……

リンクしたい

必要以上に話題になりたくないとか、そういうなんらかの理由であんまりリンクはらないでください、と書いてあるなら、わざわざリンクをはりまくったりする必要はないかなぁと思う。(というかそれは無断リンク*禁止*ではないのでたぶんそもそも問題になってないとは思うけど)

それを上回る必要性や価値がそのリンク先のリソースにあるならなんて書いてあってもリンクするけど、結構悩む。リンクした結果リソースがなくなってしまうと本末転倒で困るからだ。 (ようは自分が困る)

必要性もないし、リンク先リソースに特に価値もないなら、無視しとけばいいと思う。

ノイズ

全うな批判とは別に、それに紛れて、「ただ叩きたい」と思っている人はいて、中にはそれをやたら表に出してアイデンティティにしている人がいる。そういう人にからまられるのは、いぢめと同じでターゲットにされたらもう終りであるから、事故だと思って耐えるしかない。反論の意味がないからだ。 (議論じゃないから) もしかしたら、他の人がその人のわるい部分をしっかり批判してくれるかもしれないけれど、ターゲットにされた人ができることはなにもない。

特になんてことない。洗濯機はいつも日常的だから、洗濯機は洗濯機であればいいのだ。

雨の日に洗濯機は動かない (もしどうしても必要であったらとか、乾燥機があったらとかだったら、動くかもしれない)。洗濯機の寂しさ。遠い日常があって、あるいはそれは日常的な女の子と似ているのかもしれない。明日になればいいんだ。でも明日が晴れるとは限らない。よくやまない雨はないと言われるけど、ストーリーはいつのまにか終ってしまうことがあって、そのとき降っていた雨はもうやまないのだ。

やっぱり黒い洗濯機がいい。

次の CD いつでるんだろう。


度々思うけど、ホントに Ruby と JS 以外は書けるレベルじゃないんだよなぁ……それにこの二つもマトモなのを書いたりできてないよなぁ……

全然だめだ。C は簡単なのはどうにかいけるけれど、API 呼んでどうこうするときは結局 Ruby ライブラリ化しちゃったりして逃げちゃう。Perl 書こうと思ったらいつのまにか Ruby 書いてたりする。うまくいかないなぁ。

あ、Brainfuck は書けるか。いやでも書けるっていっていいんだろうか……謎だ。

「触ったことある」ぐらいのレベルで止ってるのが多すぎる。


コンビニ行ってタブルコンソメとリプトンミルクティーを買ってこようと思います。

学校は必要なんだと思う。なんかどうしよもないものに抑えつけられている必要がいくらかあって、その役割が学校なんだと思う。だから、なんだかんだぐだぐだ文句がありつつも、学校とか教育なんて変らない。ぐだぐだ文句を言うために学校があるんだから、そうだよなぁ。問題意識を育てるためにあるのかもしれない。

楽しくて、幸せでありたいと思うと同時に、そうなってはいけないような意識を感じている。そこでは思考停止が幸せなのかなぁとも思う。幸せなときに、なんか創造的なことってできるんだろうか。欲張りならできるかもしれない。なってみないとわからない。でも何もしたくなくなる気がする。

全く逆のことも常に考えてる。それはこれまで、いつも書いてるようなやつ。たまにはいつもと逆のほうを肯定してみる。

みんなが今の世界や、社会を望んで生成してるとかそういうアレで、全部、既に思い通りだということを考えてる。でもあんまり自分はそれを信じてない。だって、高校生活はホントにつまらなかったんだ。結果的によかった、とか、あんまり意味がない。それこそ、なんのために生きているんだろう。辛いことやってれば幸せか? 過ぎたことはいい。


よくないことを書くかもしれない。

努力は報われるだなんて宗教がはびこってて、熱心に信じている人がいる。悪くないけど、そんなに頑張る必要って、あるんだろうか……努力とかいう、辛いことを積極的にやろうとすることができないで生きてる。勉強しないで高校に入って、勉強しないで大学に入った。

辛いことを、楽しいことに変換できる人が羨しい。楽しいことまでいかなくても、少なくともやる気になれるのが羨しい。呼吸をするように努力をして、その努力がまわりに認められる人は、すごく充実しているんだろうなぁ。

でも、努力しようとして上手く立ち回りかたを知らない人が中にはいて、そういう人たちは、努力をして、どうにかしようとはするんだけど、やればやるほど、うまくいかないのだ (多少、知識や技能はできるようにはなるだろうけれど、それが「努力」に見合わないのだ)。

「上手く努力できる才能」っていうのがあって、そういう人には努力しないでなんちょれ、という風にとらえてしまう。そして強い人や、偉い人は、だいたいそういう人だ。

幸い (?) なことに、自分は中間に位置していて (いつでも自分は普通の位置である)、努力する才能はないけれど、努力する気もなかったので、どうにかやっていけている。誰かが「努力」をしないで幸せになれることを、努力ができない人に、証明しなければならないと思う。だめだったら、それはたぶんそういうもんなんだと思う。あんまり深刻に考えているわけじゃない。最悪のケースのシナリオは絶対に裏切らない。

キチガイがわめいてるように見えるだろう。怒られるかもしれない。まぁ実際、夜中に奇声をあげたりとかよくあるわけで、なに考えてるかなんて、わかってもらえないんだろうと思う。


努力って言葉は便利だなぁと思う。「頑張れ」に似た便利さだなぁ。あたりまえか。努力しろっていうのと頑張れってのは同意だもんなぁ。

努力ってことにしておけば、あとから、辛いことをやってしまった自分を正当化できる。素晴しい言葉だなぁ。

僕は高校三年間努力して大学に入りました。どうしても原子周期表が覚えられなくて、補習をうけることになったりもしました。英語の単語テストで良い点数がとれたことはあまりありませんでしたが、一度だけ高得点をとったことがあり、そのときは先生に「やればできるじゃん」と言われ、嬉しかったです。でもそれからまた良い点数がとれたことはありません……

数学がどうしてもできなくて、文系に進路を変更しました。僕は小学校のころから理科が好きだったので、自分にはそういう道が向いていないと思いショックでした。でも文系の勉強は辛かったですが、頑張って本を読みました。それまであまり本を読むのは好きではありませんでしたが、頑張って読んでいるうち好きになり、今では自分で積極的に本を買うほどになりました。

とか。努力をしたとか頑張ったとかいう以外は嘘はついてない。

うーんでも、もうちょっと、言いたいことは、違う。もう寝よう。矛盾してるとか思うだろうけど、努力は全てむくわれるべきだと思ってるんだ。この場合の「努力」が、どういう意味を差しているかわからないけど


ながすぎ。もっと簡潔に書けよ。うざいなぁ。