何をやるにしても、見当もつかないような方法で、優れたことをする人がいて、そういう人には、決してかなわない。上に人がいて、追っ掛ける気になるなら、それはとても楽しくて、よいことなのだけれど、追っ掛ける気もなれないほどに、離れていれば、そういう気もなくなり、立ち尽すしかない。

気概を持ってとりくめなければならない、気骨を持ってないのはだめだと、しばしば聞かれることだけれど、そんなこと、「そうじゃない」と、否定する人はまずいないだろう。「その通りです」と、「仰る通りです」と、思って聴くけれど、どうすればそういう心になるかは、全く聞かされない。本人達も、一種の才能によって、それを実現してきたわけだから、伝えられない。そのくせに、他人には、結果的にできたこと、「おまえらとは違うのだ」といわんばかりに、教訓めいたことは存分にいう。

しかし時々、とてもうまく言葉を使いこなす人がいて、そんな人は、上に書いたような、わかりきったことをただ繰り返して、却って他人のやる気を奪うようなことではなく、淡々と事実だけを、飾らずに言葉にして、「それでいいなら、自分にできそうだ」と、やる気をわかせてくれる。ただし、そういう人は極めて少ない。

人とできるだけ関わりたくないが、そうもいかない。思うことをいっていると、他人樣のやる気を奪う結果になる。全くよくない。そう思っても、たびたび何もかもどうでもよくなり、他人のことを全く考えずにいるようになる。

そういえば伏見稲荷大社近くの歯科のマークがおもしろかった。

混乱をきたして攻撃的になっている。ひきこもりたい

カアは、悲しくて、いやだ。可哀想で可哀想でたまらないから、わざと意地悪くしてやるのだ。カアは、野良犬みたいに見えるから、いつ犬殺しにやられるか、わからない。カアは、足が、こんなだから、逃げるのに、おそいことだろう。カア、早く、山の中にでも行きなさい。おまえは誰にも可愛がられないのだから、早く死ねばいい。

これまでの私の自己批判なんて、まるで意味ないものだったと思う。批判をしてみて、厭な、弱いところに気附くと、すぐそれに甘くおぼれて、いたわって、角(つの)をためて牛を殺すのはよくない、などと結論するのだから、批判も何もあったものでない。何も考えない方が、むしろ良心的だ。

本能、という言葉につき当ると、泣いてみたくなる。本能の大きさ、私たちの意志では動かせない力、そんなことが、自分の時々のいろんなことから判って来ると、気が狂いそうな気持になる。どうしたらよいのだろうか、とぼんやりなってしまう。否定も肯定もない、ただ、大きな大きなものが、がばと頭からかぶさって来たようなものだ。そして私を自由に引きずりまわしているのだ。

やれ生活の目標が無いの、もっと生活に、人生に、積極的になればいいの、自分には矛盾があるのどうのって、しきりに考えたり悩んだりしているようだが、おまえのは、感傷だけさ。自分を可愛がって、慰めているだけなのさ。

お父さんが、いなくなったからって、こんなにも卑屈になるものか。情なくなって、何も言えなくなっちゃった。帰って下さい、帰って下さい。私の父は、立派なお方だ。やさしくて、そうして人格が高いんだ。お父さんがいないからって、そんなに私たちをばかにするんだったら、いますぐ帰って下さい。

いまのあの子に泣きながら慕われているその「おねえちゃん」を羨しく思うのだ。私にだって、あんなに慕って甘えてくれる弟が、ひとりでもあったなら、私は、こんなに一日一日、みっともなく、まごついて生きてはいない。生きることに、ずいぶん張り合いも出て来るだろうし、一生涯を弟に捧げて、つくそうという覚悟だって、できるのだ。ほんとうに、どんなつらいことでも、堪えてみせる。

人生、限られた時間しかないのだから、使うに限度があるお金をどう得るかではなく、一時間・一日をどう生きるかのほうが重要だ。でも、どうしたらいいかよくわからない。がむしゃらに何かやったって意味がない、リア充は途中からそれら全てを奪っていくから。

嬉しさの指標がなくなっている。褒められても嬉しくない、自分が満足していないからだ。嫌味なのではと穿った考えをしてしまう。素直に受け取ればいいのだけれども、どう考えてももっといいものがあるし、いいひとがいる。

日記も書けないようでは人生終わりだ

カアは、それなりに生きていける程度ではあるが、生きていくのが難しい犬である。あの時点での、若い世代への答えであると思う。

そういえば、上賀茂の式年遷宮が21年なのは、神職の人もよくわからないといっていた。たぶん職人の負担を軽減するために伊勢とずらしてあるのだろうといっていた。