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誰にも嫌われたくないみたいなのは全くなくなったけど、しかし限定した範囲ではまだそういうのがあってしばしば困る。それによって書けないこともでてくる。良くみられようとするってのはそれ自体が醜いことだし、言葉の節々に本性というのはでるので、百害あって一利もない。
知らない人とのコミュニケーションの仕方についてはよく考えるけど、知ってる人とのコミュニケーションの深め方みたいなのは全然考えていないなと思った。基本的に後者って「会って話せばいいじゃん」というものなので、インターネットでやる意味は薄いかなと思いつつ、そうはいっても物理的な距離があってどうしようもない場合もまたカバーすべきケースであり、しかし解決方法がさっぱりわからないので、困ったもんです。
梅が咲きはじまって春の予感があるということが、思ったよりわくわくすることに気付く。
日本語だと文字単位 (拍単位) で音を認識するせいか、拍の間にある響きをあんまり意識しないけれど、思っているよりもこの部分の響きというか拍間の繋りというのはおもしろい。
指輪という唄、完成度が高くて何度きいてもすごいなあと思ってしまう……
綺麗さ、みたいな感覚というのはいつでもついてまわっているけど、いつもその感覚ではずっとやっていけないし、そのことばかり考えているとうまくいかないことが殆どなので、何らかの妥協点が必要になってくる。一方では、そのように妥協し続けると全くろくでもないことになる。これだけは守ろうとかといった何らかの指標が必要。
コードを書くときも、綺麗に書くことを考えすぎて現実的なコードをなかなか書きはじめられないということがあって、今もちょっとずつ治しているので (綺麗に書くのが悪いというわけではなくて、動くコードを最優先にしようと)、他の部分にもちゃんと応用していきたい。
全く、普段あまり話さないタイプの人と話したりすると、コミュ力の低さが浮き彫りになって、それを意識しだすとひたすら申し分けない気分だけが残る……
いくらか追い詰めてでも、自分は緊張感持たないといけない。気を抜いてはいけない。
全くダメな人間なので、どうして自分が思ったように自分は頑張ってくれないのかイライラする。しかしこのように書くのもある意味誰かへの言い訳なのである。
おれのやるべきことは技術的限界に挑戦にすることではなくて、メンテナンスしやすいコードを書くことのはずである。技術的限界への挑戦なんてのは、もっと頭の良い人が勝手にやる。バカはバカなりのことをしなければならない。最初にコード書く原動力となったのは何だったか? 頭の良い人が書いた、頭の良い人にしかメンテナンスできないように書かれた、内容は難しくないコードを見て、これなら自分で書きなおしたほうがマシだという気持ちではなかったか。
本心を口に出して話せるのというは貴重だ。日記にどう書いたとしても、口からでる本心に比べると、全く本心ではないことを書くことになる。そういう相手がいるというのは幸せなことだと思う。でも口に出してしまえば何も残らず揮発していくし、また、口からは出せない本心もある。
「無闇に安心している」ということを自分は嫌っている。何らかの受動的な幸せに甘んじているのもこれに入るんだろう。それもいいと思いつつ、直感的にはだめだと感じてしまう。そういった幸せはいつまでも続かないという気持ちから、一部それはきている。あるいは無能なやつや努力していないやつが幸せになるのは、他人でも自分でも許せないというような根本的に心が狭い考えがあってそう感じるのかもしれない。他人に対して表向き寛容であろうとしても、心の奥では不寛容な気持ちがいっぱいあるのだ。(好みでない)他人が幸せになろうが別にどうでもいいというのも本心の一つではあるのに……
いやいや、そういうことを書きたいわけではなくて、単に、なんだろう……
想像力と意志力が欲しい。結局この二つだ。