「おれ……はてなさんのこと……好きだ」
「え…………」

少し前夢で見た好きな娘も、時間が経てば顔や、雰囲気も忘れてしまうものだ。残るのは、明確に文字に起こせる所謂属性のようなものだ。かなしい。

おれは言語によって思考が制限されるとは考えていない。これは高校のときに結論を出してから変わっていない。結論を出したのは改装工事中の小田急成城学園前駅の改札 (当時は片方しか改札がなかった) を入り、階段を降りていく途中だった。

さらに言えば、このことは人間が想像できるもので創造できないものはないというのと繋り、最終的には、人間ごっこに繋る。僕らが生きているのは想像の世界であって、それに感覚がついてきている。感覚は想像によって創造されている。御互いの影響、関係は無意識下で機械的に行なわれる。ある意味ではプログラム済みだ。メモリエラー (突然変異) が起きないかぎり (パリティチェックとエラー訂正がついていたらそれも起きないだろう)、定められたアルゴリズムで伝播がされ、未来へ動いていく。しかしながらその次元での影響は僕らが感じている時間に因っているわけではない。僕らの時間もまた、僕らが想像し、感じとっている要素の一つであり、その無意識下の影響の進みとは違う。

僕らは僕らが想像する「人間像」によって制限されている。所詮ゲームにも関らず、昔に誰かが必死wwwになったせいで、まきこまれ、人間ごっこ (=人間であることを演じること) をせざるを得なくなった。しかも長い時間をかけてそれがあたりまえになり、現代の人々、すなわち僕らは人間ごっこをしていることに気付けず、やめる方法を忘れている。

僕らは今、どちらかと言えば感じている所謂「現実」ないし「物質」をより重要視している。けれどもちろんそれは本来間違いである。僕らが想像した「人間」なるものがそういう世界で生きるゲームをしているだけで、本来そういったものはそのゲームを制限する要素でしかないからだ。ゲームマスターはなんでもできてつまらないから、ある程度制限を設けてその中でゲームをしているわけだ。僕らがストーリーを考え、想像し、設定によって制限するとき、そこには僕らのような存在ができる。同じように、僕らはメタ世界の住人によって作りだされている (この表現は適切ではない、そのメタ世界の住人と僕らは同じ存在だからだ)。

君がこの文章を読むとして、読めるとするなら、この文章を書いて、ここでの「僕ら」を想像したものがどこかにいる。そして君がこの文章を読んだときに想像する「僕ら」がまた生まれ、君はメタ世界の住人として彼らに想像される。僕らは君と同じだが、他人の想像した僕らとは違う。

歌ってみた系とか好きだけどなぁ。ああいうのは嫌いな人ってニコニコで何見てるんだろ。