土曜日は15時ぐらいに起きて、それからまた寝ていた。

日曜日はひとまず外にでようと御苑に行ったら御所の一般公開の日だったので見てきた。前年行ったときより人が少なかったのでじっくりみれた。

その後、太田神社、上賀茂神社、久我神社へ行ってから植物園へ。途中雨が降りはじめたので早めに帰宅した。

月曜日 (休みだった) は、朝7時ぐらいに起き、また例のところに行こうと考えて準備をしていたが、雨のため中止して宇治へ行った。目的は宇治上神社で、ついでに宇治神社、平等院鳳凰堂を見てきた。

雨がとても強くて写真をよく撮れるような感じではなかったので、じっくり記憶に残してきた。宇治上神社は静かで質素な神社で、趣があった。本殿の写真しか見たことがなかったので、拝殿がないのかと思っていたけれど、ちゃんとあったし、拝殿も良かった。

平等院は修学旅行で行ったことある気がしていたけど、やっぱ行ったことがなかったっぽい。付属のミュージアムのデキが良くてびっくりした。あとあの屋根にある鳳凰は本当にかっこいい。

生活に溢れているのだから、それを伝えなくてはならない

人間ほんと嫌いだなあとつくづく思いました

人間とのコミュニケーションは「貴重だ!」と思える程度の頻度でいい、それ以上は過剰

自然の緑はディスプレイで表現できないんだから写真撮る前に記憶に焼き付けろや貴様

趣味は散歩なんです (ひきこもっていたときは夜になると散歩していた)

本当に、外に向いている人間って嫌だなあ。歩いていて、風景に在る人々っていうのは美しいのに、どうしてこう同じように呼ばれているモノが、ああも見えかたが変わるのか。

ちょっと思いついたことがあるけれども、書けない。少々思い違いをしていたことあった。生活と孤独が重要なのであって、他人の役に立つとか立たないとかなんてどうでもいいことだ。

集中して散歩しているといろいろ整理がついて面白い。散歩で四季を感じて、木がどうなったか、花がどうなったか、景色の変化、風がどうなったか、温度がどうなったか、体感の変化をしっかり。新緑のつややかな感じ、鮮かな色、肺に吸いこまれる空気の、土、水の匂い。ただ公園を散歩するだけだ。

整理、自然の生活に立ち還って、また、普段のいろいろなことに目を向けなおすと、大抵が本当にどうでもいいことだ。それでどうなった? それでどうなった? たぶん、たくさんの人が同じようなことを思っている、一方、たくさんの人が忘れている。とはいえ、たくさんの人とか、どうでもいい。

それで誰が幸せになったんだ?

土曜日は京都御苑、上賀茂神社、大田神社、今宮大社にいって、ユニクロで適当なジャケットを買って帰った。大田神社はすごく雰囲気がいい神社なのだけれど、あんまり立ち寄ってない気がする。

日曜日は自転車で日向大神宮にいってから、電車で長岡天満宮へ。日向大神宮、しばらく行っていなかった。結構精神的に遠いというか、坂がキツいのでなかなか足が向かない。しばらくぶりに行ったら、日向大神宮の外宮には天之御中主神が奉らていることに気付いた。天之御中主神は重要な位置づけではあるのに奉られることがあんまりないらしいので珍しいかもしれない。

長岡天神は人がいっぱいいた。

木嶋坐天照御魂神社も天之御中主神が主祭神だった。神社名からして天照大神だと思ってた……

自分の頭の中には「死ぬ前にやること」が積まれたスタックがあり、死のうと考えたときは pop するようになっています。スタックの一番下には自殺が入っており、スタックの上にいくほど簡単にできることになっております。これにより「あとはもう死ぬしかない」という状況になるまでにすることが整理され、「まあどうせ死ぬなら、まず一個上のをやってみるか」という感じになるわけです。

自分が幸せにならんことしても仕方ない。git のように生きよう。うんこぶりぶり

僕は体内にモチベーションを創造する器官がないか、ないし殆ど活動をしやがらないので、たまにどっかからきたモチベーションを刈り盗られると何もできません