どんな遠くの田舎の野道を歩いていても、きっと、この道は、いつか来た道、と思う。歩きながら道傍の豆の葉を、さっと毟りとっても、やはり、この道のここのところで、この葉を毟りとったことがある、と思う。そうして、また、これからも、何度も何度も、この道を歩いて、ここのところで豆の葉を毟るのだ、と信じるのである。

太宰治 女生徒

日記を書き初めたとき、そもそも文というものが全く書けなくて、大変苦しい思いをしたことを思い出した。何度も「頭の中の言葉をそのまま書けば良い」と考えても、上手くいかなかった。実際のところ、そのとき自分の頭の中にあったのは、自分では言葉だと思っていたけれど、実際は言葉ではなくて、混沌とした、曖昧模糊な、言葉になる前の何かであった。思ったことをそのまま書くのは自分には難しいことだった。最初の日記は140文字よりもっと少ない、「何で書けないのか解らない」とか「すごく嫌な気持ちになった」といったことしか書くことができなかった (絞り出しても)。

その時、とにかくまともに書けないこと自体に大きく苛々したものの、自分の中の感情のプールの狭さにより、その溜ったものらは、どうしようもなく、どこかに出さなければならなくなっていたので、その気持ちと、少ない語彙の組み合せをいくつか試して、しかたなく一番ピンとくる言葉を使った。とはいえ、語彙の少なさのせいで、正確な表現にならなかったので、それはそれで「上手くいえないが、もっと、こういう」とか、その言葉を選ぶ過程で上手くいかなったこともそのまま書いていた。いやそれは今もそうだけれど、とにかく、できるだけ浮かんだ何やらは全部書くようにした。

日記を始めてから、何も書くことがない日があることに気付いた (別に毎日書こうと思っていたわけじゃなかったけれど、「何か書いておきたい」とだけ思ったとき、浮かんでくることが何もなかった)。考えていたことを全部書くようにしたのだから、何も書くことがないということは、何も考えていないということだった。自分、何か考えているつもりで一日過ごしたけれど、何も考えていなかった、というのを気付くことになった。恐しいことだったけれど、日記の効能の一つだった。

日記の効能というのは、いくつかあるとは思うが、他人の得になるものは大してなくて、あっても書いているときはそんな他人のことなんてのを考えていなくて、単にそれは公開して日記を書く言い訳のためのもので、普通のときはどうでもよいことだ。書いているときその瞬間は、そのときの自分自身のプール容量の確保がほぼ唯一重要なことで、未来の自分のためというのも、くだらないことを長々と書くことの言い訳程度に過ぎない。

  • なんで日記なんて書くのか
    • ムカついたことは書いとかないとずっと溜り続けて困るので仕方なく
    • 考えたことは保存しておかないとすぐ忘れるので仕方なく
  • なんで公開でやる必要があるのか?
    • お前ではない誰かが困ったときに、同じように考えている人がいると解れば、多少安心できるだろうから
      • 実際自分は困ったとき他人の日記を大量に読んで気を落ち着かせることをよくやる
    • 誰かに多少解ってほしいと思うからどうしても
  • 公開でやること
    • 大抵の人は自分に大して興味を持ってないので問題ない
    • 自分は特殊な人間ではないただの平凡な人間であるのだから、殆ど誰も気にとめない