自分が言う「成功体験」というのは、自分で考えて自分で作ったもの (行動) が正しく社会に認められることなんだと思う。このような承認欲求というのが、自分はそれなりに強いみたいだけれど、なんでそんなことになっているのか考えてみると、殆どよく解らない。実際は「成功体験」自体が全くないわけではないはずではあるものの、主観的には「失敗体験」による自信の喪失ばかりで「成功体験」は全然に少ないと感じている。

モチベーションを損う原因となるのは、行動の結果失敗することがありありと想像されることが大きくて、普段から何かにつけて、評価された結果「ダメだ」と言われることばかりが頭に浮かび、そのせいで、一度失敗した経験はすごく強い行動の抑止力になっている。それでもなお「全く何もしない」選択をせずにすんでいるときの要素は「自分で満足できればよい」ぐらい他人を信用しない心持ちと、「(仕事のように) やらないと恐怖が待っている」という危機感と、「解ってないのはあいつらののほうだ」という逆ギレのおかげかもしれない。

「承認済み」の人間が心の底から苦手でどうしようもなくて、全く関わりたくもないと思い続けている。とは言っても、どんなコミュニティでも一定数そういう人はいるものでそこはどうしようもないし、あるいな成功している (ように見える) 人には承認済みの人が多いので、これがまたうんざりさせられる事実のように感じられて、いつもすごくめげそうな気持ちになる。

「承認済み」の立場から発せられる言葉とか (特徴的な言葉遣いを)、声とか (特徴的な発声でする) というのは、あからさまに「自分は承認されています」という含みがあり「そんな言い方がアリなのか」とびっくりする。

サービス開発とか向いてないんじゃないか。

思い返してみたけど、事実として成功体験が少なく、別に過剰な思い込みによる勘違いではなかった。

理科系の作文技術 (中公新書 (624)) - 木下 是雄

木下 是雄

3.0 / 5.0

文章作法学ぶなら (理科系に限らず) とりあえずこれを読んでおけというぐらいの本だそうで、「何か文章を書くコツが書いてある本でも欲しい」と書いたら、すすめられたり、社内の編集の方が他の人に薦めているのを見たりしたので、さっそく買って読んだ。

一度読んだ限りだと、段落をどう構成するかというのが一番参考になった。今まで段落をなんとなくで分けていたけど、トピックセンテンスを意識して必要ないことはひとつの段落に入れるなということで、(もちろん知っている人にとっては当然なんだろうけど) なるほどなあと思った。

他にも、普段気を付けていること (毎日このクソみたいな日記をつけることによって学びとった基本的なこと) も簡潔に纏めてあった。やってきたことに関して、とりあえずそんなに間違ったことを考えているわけではないと分って良かった。こういう本は場合によっては「お前は全く間違ったことをしているぞ」と言われかねないので、おそるおそる読むのだけれど、今回はそうひどいことは言われなかったように思う。

まだ十分生かしきれるほど飲み込めていないので、今後何度も読みかえす必要がある。というかもっと早く読んでいれば… と思った。

プログラミング言語については強く興味を持ち言語仕様を調べたりするのに、自然言語、例えば日本語についてはそんなに仕様を調べたりしないのは変だなとふと思った。

たぶん、間違いに気付きにくいことが大きな違いだと思った。プログラミング言語はコンピュータが解釈するから間違えているのが即座にわかるけれど、自然言語の場合、他人に読んでもらわないと間違いに気付かない。他人に読んでもらうというのはすごく敷居が高いしコストがかかる。そのうえ他人からの間違いの指摘というのは、コンピュータからの指摘と違って、大きく自尊心を傷付けられることがある。

さらに自然言語で特に母国語の場合、言語仕様について特に知らなくても運用できてしまう。なんとなくで使えて、なんとなく理解してもらえてしまうものだから、コンピュータ言語ほど厳密に書こうという動機が生まれない。

また、人間同士の場合、片方が理解しようとしている限り、コミュニケーションのコストをその片方に押し付けてしまうことができる。片方が伝える努力をしなくとも、片方が理解しようとする努力をしている限り、理解しようとしているほうに甘えてしまうことができる。コンピュータ相手であれば、コンピュータは理解しようという気がまるでないので、こちらが一方的に伝える努力をする必要がある。

人工言語であろうが自然言語であろうがコミュニケーション言語には変わりないので、もっと自然言語の仕様について敏感でもいいし、もっと伝えようと努めてもいいなと思った。

文章間の論理の繋りについての感覚がいまいちない。これは日記を書きはじめた当初からずっと感じていることで、なかなか改善しない。読みなおしてあれ?と気付ける範囲であればまだ改善ができるかもしれないけど、読みなおしてもわからないことがある。

「間違いがない」ことを証明できないと、間違いがあるかもしれないという不安からは解放されない。当然そんな証明はできっこないので、文章を書くときはいつも不安である。

自分の人生なので、自分で考えるしかない。

今まで価値を感じていたものが失われたのであれば、他のものを手さぐりで探し求めるしかない。

どこに価値を感じていたか、今はどうなのかを、定期的に、最悪でも一年に一度程度は、考えなおす必要があるように思う。

仕事でやることが詰まってるときほど、さらに負荷をかけるようなことをしてしまう。ゲームや、普段は読まない本を読んだり、今までやってこなかったことをやったり、仕事自体でも細かい実装に凝ったり。

負荷の大部分は不安で構成されている。この不安を短期間に最大限まで呼びこむのは、短期的な不安に上限があるために理にかなっているようには思う。

詰めこんでいるときは行動力が強く発揮できるのは良いと思う。けど、波があるのはよくない。

全然更新してないが普通に生きている。この日記書いてない期間というのは、自分の場合

  • 何も考えてない
  • 考えているけど公開で書けない
  • 考えているふりしかしていない

のうちのどれかで、今回のこの期間については「考えているふりしかしていない」が当てはまると考える。

いろいろ不安やら考えごとはあるものの、日記に落とす前に寝てしまっている。しかし文章に起こせなかった考えはなかったも同然だ。「昨日はたくさん考えたな」と自分で思ってはいても、実際のところ頭の中は整理されておらず、ループする思考の波に身をまかせているだけになってしまっている。

文章に限らないけれど、何もアウトプットせずに「考えている」だけというのは「考えているふりしかしていない」ことと同じだ。

久しぶりに南禅寺に行ったら、いつもは拝観を受け付けていない大寧軒という庭園が見られるようになっていた。三柱鳥居があるということで、それに期待を持って入ってみた。

三柱鳥居は木嶋坐天照御魂神社にあるのを何度か見にいっていて、形がかっこいいので気に入ってる。京都だとその神社の元糺の森にしかないと思い込んでいたのだけれど、今回行った大寧軒にも確かに小さいものの一基あった。元糺の森は水が沸きでるところに立っているけど、こっちもそうらしい。

高校生か、大学生ぐらいのときは、プログラムを書くときの長期的な目標として「作りたいものを作れるようになる」というのがあったことを思い出した。

今それはある程度できるようになったけれど、ただできるようになったと言っても、自分のフィールドに強引にひっぱってくる力がついたり、他人の成果 (ライブラリなど) を探しだす能力が多少ついただけで、プログラミングそのもののスキルはそんなに向上していないように思える。

「プログラミングそのもののスキル」というのは「アルゴリズム」「設計」「実装」にわけられると思うけど (もっとあるかもしれない)、特にアルゴリズム関係の力はほとんど成長していない。設計力と実装力は今の会社に入ってから特に重点的に考えていることだから、多少できるようになっていると思うけれど (できるようになっていないと困る)、それもまだまだやっぱり経験の不足は否めない。

それはともかく「作りたいものを作れるようになる」は今も良い目標だと思っていて、これはちょうど、馬が目の前のにんじんを食べたくて走るように、自分がすすめばすすむほど「作りたいもの」は遠くにいって、ずっと成長の指標になる気がしている。目標を立てた当初、自分が「作りたいもの」はブログシステムだったけれど、これは思うように作れるようになってきている。今作りたいものは、たくさんの人がストレスなく楽しく使えるサービスであるので、また遠くに餌がいってしまっている。

「ちょっと思いついたから実装書いてみるわ」みたいなノリでさっさと作りあげてしまう、というのに憧れている。