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層雲峡温泉 → 層雲峡ロープウェイ → 銀河・流星の滝 → 山の水族館 → 網走 → 小清水原生花園 → 知床世界遺産センター → 知床五湖、一湖展望台 → 知床ウトロ温泉 → ナイトサファリ

知床ウトロ温泉 → 知床半島クルーズ (硫黄山まで) → 知床峠 → オシンコシンの滝 → 硫黄山 → 摩周湖 → 塘路駅 → くしろ湿原ノロッコ号 → 釧路駅 → 阿寒湖畔温泉

阿寒湖畔温泉 → オンネトー (湖) → ファーム富田 → 新千歳空港

メモ

  • 事前の天気予報だと曇り〜雨だったが、実際はほぼ晴れ〜少し曇り程度で良かった。特に湖を見るタイミングで晴れていたのは大変良かった
  • ツアーで行ったけど今回に関しては正解だった (距離感が掴めないし、移動が大変すぎる・いろいろ説明してくれて良い)
  • 道東のいろんなところへ行く感じなのでかなり急がしかった。
  • 印象に残ったのは
    • 小清水原生花園
      • 花がちょうどいい感じ。とにかく広くて気持ち良かった
    • 知床
      • 一湖しか見てないけど大変よかった
    • 摩周湖
      • 異様に綺麗だった
    • オンネトー
      • こちらも綺麗だった

知床、美瑛、小清水原生花園あたりは物足りなかったのでまた行きたいと思った。総じて久しぶりにかなり楽しかった。

旅行中はほぼインターネットを見ず (ポストのみ) 過ごしたけど快適だった。帰ってきてからいろいろ考えたけど、はてなブックマークとかFacebookとかはストレス源になることがよくわかったので、hosts で制限してしまうようにした。

モバイルから、はてブアプリもよく見てたけど、よくよく考えてみると笑える何かや興味深い何かを発見することよりも不快なもの・ひとを発見することのほうが多いようなのでホーム画面から消してポスト専用にするようにしたい。代わりに500pxのアプリを置いた。こちらのほうが健全だと思う。

生活を向上させる道具を正しく使うことについて考えたい。

最近どうもインターネットで不快だなと思うことが多くて、そういうのを思うってことは、道具を道具として使いこなせていないなということだな、と思った。どこにその原因があるのか考えているけど、なんともよくわからない。

  • 嫌な人間が目に入ってくるのが嫌
  • 嫌なコンテンツが目に入ってくるのが嫌
  • 嫌な人間や嫌なコンテンツが流行っているように見えるのが嫌

嫌だなあと思うことをすこし考えると一番大きいのはこのへんだなと思う。嫌なことは好きなことよりも、些細なところで目に付きやすいから (嫌いな食べ物が少しでも入っていると気付くのと一緒だ)、徹底的に排除していきたい。

これらの人間・コンテンツの入口になっているのは、僕の場合 togetter とかはてなブックマーク、Facebook なので、これらをまず制限するのがいいように思っている。

特に Facebook が Twitter 以上に不快に感じるのは Twitter ならどうでもいいポストも大量に混ざるので流していけるのに、Facebook だと、多少は知り合いだからというバイアスがかかって、頭が勝手に読もうとしてしまうので、余計に負担がかかるように思う。多少知り合いだからといって、自分にとって味方であるかというと全くそうではないし、当然ただの他人なのに、必要以上に気にしてしまうように思う。

例えば、他人を誰とは言わず非難するようなポストがあると、だいたいどんな内容でも自分が言われているように思えて嫌な気分になる。特に正論だとどうしようもなくて、そのようなポストは単に「無能死ね」と言われているに等しく感じる。ポストしてる人は当然悪くなくて、受け取る側の態勢の問題なんだけど、なんというか、悪くないから恨めもしないし、どうしようもなくてさらに嫌な気分になる。

正論で「全くこれこれこういうやつはダメだ」という話は、だいたい全部あてはまるので、そういうのが多いととにかく辛い。自分は全体として人間性が劣っているし、仕事はできないし、コミュニケーション能力も低いので、たとえそういうことを言われても「はい、そうですね。すいません」としか言いようがない。(人物を明確にして「仕事できないやつうぜー」みたいなのを見ても、見えない部分で自分も言われていると思う)

こういうのはだいたい自分もやっていることではあるから、他人に止めろと言えるようなことでもないので、ただうまいことして観測範囲から消しさりたいと思ってる。

なぜ毎日、自ら不快になるようなことをしているんだろうと思うわけです。根底には「今辛い思いをしておかないと将来もっと辛い思いをする」という考えかたがあって、半ば強迫されるような感じでそう思って何かをやっているわけです。将来もっと辛い思いをするという部分は、なんとなくそう思っているだけなのかもしれない。今辛いというのは、現実の話だけど、将来の話は想像であって現実ではない。と思ってはみても、例えば仕事をしたくないからといって、即時で仕事をやめると、かなり近い未来において金に困ることは目に見えている。世代的に、就職難だ、仕事ってのはそうそうあるものではない、景気は悪い、と言われて育っているから、仕事がなくて金に困るのは本当に死ぬほど怖いわけです。そこで詰む。後がない。貯金なしでゲラゲラ笑いながら生活している、みたいな人を見ると自分は信じられない。

しかも自分ができるようなことは、第一次産業のように生活に必須のものというわけではない。にも関わらず、自分ができることを切り売りして仕事をしないと生活ができない、みたいなことになっている。変な話だと思う。自給自足の生活ができていれば、あるいは自信がつくかもしれないけれども、元からそういう生活をしていたわけでもないのに、今からそうするのは、株の不労所得で暮らせるようになるのと同じぐらい辛く感じる。結構前から詰んでいるのかもしれない。

北海道へは EF 70-200mm と SIGMA 20mm さらに EOS M + EF-M 18-55mm で行ったけど正解だった。超広角は一本絶対に必要だと思った。200mm も結構使った。記念撮影っぽいのは EOS M だと顔優先フォーカスがあるので、撮ってもらったりするときにすごく便利だった。標準画角も EOS M でカバーできる。ただ、EOS M のバッテリーの予備を忘れたのが痛かった。