何も書いてないが書けることがぜんぜんない。いろいろ思うことはあるけどアウトプットにいたらずに消えていく。ということを書いておく

生成AIがいろんなところで物議というか議論を呼んでいてモヤモヤしている。自分の立場は「自由にAIに学習させるべき」「出力が既存著作物にあまりに似ているなら対処すべき (人間の出力と同様)」で、生成AIに制限は必要ないと思う。

オリジナリティは受け手にあるということ

作り手がどう考えて出力していようが、受け手が「XXのコピーだ」と感じればそうなる。新しいと感じればそうなる。これは作り手が人間だろうが何だろうが関係ない。人間でも全く同じ理由でオリジナリティは決まる。受け手がすべてを決めている。

根拠のない権利の主張は「自分は唯一のオリジナルである」という認知からくるのだろうけど、それだけで幸せそうで羨しい。そもそも自分の設計図であるDNAすら両親からコピーされマージされたものだろう。産まれて教育を受けて「価値観」をある程度叩きこまれている。自分の感覚だと信じているそれは本当に自分の感覚だろうか。もっと自動的な何かではないか。この世界はコピーとマージからできている。しかしコピーとマージである自分を「オリジナル」であると認知するのも、自分自身を受け手としてとらえれば間違えてはいない。他人に影響がないなら内心は全くの自由だ。

Twitter は見てはいるけど書きこむのはやめた。2016年に、見るのも書くのも一旦やめたことはあったけど、それとはまた別の理由で、昨今の Twitter のざわつきでなんか一気に嫌になってしまった。

見るのもやめたほうがいいんだろうけど、なんとなく見てしまっている。トレンドとか「怒りの消費」の仕方とか、テレビの昼のワイドショーがロングテールになっているみたいだよなあ。

インターネット全般があんまり面白く感じていなくて、いろんな理由があった積み重ねの末ではあるけど、すべてに気力がわいてこない感じ。というかインターネット関係ないかもしれない。

コロナ禍で、健康弱者へのスタンスの違いとか、スポーツとか旅行とかの娯楽全般への耐性というか、そういうのが「まぁまぁ近い価値観を持っていそうだな」と思っていた人の間にも断絶と思えるぐらい溝があるのを感じていて、コロナ禍以前のイメージでとらえると「宗教の違い」を常に意識しなければならないぐらい、家族以外の他人と距離が生まれてしまった。