ろんりてきじゃない。タイプしながら考える。


努力がどうとか、ホントにずっと考えているけど、恐らく誰かが望むであろう「良い」答えはでてない。ただ、絶対にしたくない努力についての考え方みたいなのはあったりする。

自分でその最上級にくだらなくて、つまらなくて、つらい「努力」とやらを望んでやっているのに、「俺はつらい努力をしているから偉い」みたいな考え方をするのはさけたい。意識的/無意識的に関わらず、さけたい。だから時々自分をチェックする必要がある。


人間が生きていることになんて、なんの意味も、価値もない。意味も価値も、見いだしているのは人間/自分そのものだ。だから、「つらい」ことをやっている自分、というのは、自分がそれを望んだからそれをやっているに過ぎないと思う。いくらでも、楽しい方向に考えることはできるはずだ。でもそれは殆どの場合うまくいかない。ちょっと「つらい」ことをしたあとに楽しいことをしたほうが、より楽しいことを知っているからだ。でもって人によって、この「つらい」ことをするのと「楽しい」ことをするのとのバランスが違う。殆どずっと楽しい人もいるし、殆どずっと辛い人もいる。


そしてそのバランスは一度決まってしまうと(たぶん小学生か中学生ぐらいのときに決まる)、変化しにくい。辛い環境に慣れてしまうと、楽しいことが楽しんだ後、その楽しいことのせいでバランスが崩れ、今より辛いことになる想像をしてしまう。楽しい環境に慣れてしまうと、辛い環境の覗き込んだ時、その深さに耐えきれず現実逃避してまで楽しいことをしようとする。(というか、無意識的であれ意識的であれ、「隣の芝生は青い」ことを直感しているので、そうそうそのバランスを変えて情緒不安定になるリスクをおかしてまで、変化させるメリットがない。どうせ変えても、その状況もまた、その視点では辛い)


具体的な話をすると、自分は今学校がクソつまらなくて、授業にでなきゃいけないのにでてない。授業にでるのがすごく嫌で、自分にとって「努力」を必要とすることなんだけど、たぶんこれって、解らない人には絶対わからない。いやわからないほうがいいんだけど……それで、そんな状況で「努力」して卒業したからって、自分はそのことを偉いとは思いたくない(でも実際には思いそうなので嫌だ)。明らかにそんなくだらない、実にならない「努力」をするより、楽しく学問をできる人がそれをやったほうがいい。

実際もっとモチベーションに溢れていれば、学問の勉強ではなく、実務あるいは芸術的なことを深く追いつめることで、学校をやめる道(ないし休学)もあるだろうと思う。でも自分はそれをしてない。その程度の雑魚であるから、この中途半端な状況にいる。でも自分はそれを必死で変えたりもする気がないようだ。つまり今の状況は今の状況でそこそこ満足しているらしい。発展性がないやつだ。

ただし、状況は常に変化するし、親は死ぬし、金はなくなるので、次の状況に対応するバランスを見つけておかないといけないとは思ってる。どこに、今の自分が納得して、かつ未来の自分が安定するバランスがあるのか。


でもだいたいどっちにしろ、「辛いふり」をしたり「楽しいふり」をしなければならない。くだらない人間ごっこをしなければならない。みんな楽しいことをしていればいいのにも関わらず、「みんな楽しいこと」をしている状況になるためには、既にみんなが楽しくなければいけない。誰か一人が壊れていると、それが人間ごっこをはじめるせいで周りが巻き込まれる。誰がこのクソマゾゲーを始めたか知らないけど、だいたい今生きている人は巻き込まれてるだけだ。しかも連鎖的に確実に悪化していくので、救いようがなく、そのうち必ず終わってしまう。

と今は考えてる。でもって、しかし自分はこの人間ごっこをやめて、幸せになりたいので、抜け道を探している。今のところ人間ごっこをやめる方法は一つしか思いついてない。

関連エントリー

▲ この日のエントリ