理科系の作文技術 (中公新書 (624)) - 木下 是雄

木下 是雄

3.0 / 5.0

文章作法学ぶなら (理科系に限らず) とりあえずこれを読んでおけというぐらいの本だそうで、「何か文章を書くコツが書いてある本でも欲しい」と書いたら、すすめられたり、社内の編集の方が他の人に薦めているのを見たりしたので、さっそく買って読んだ。

一度読んだ限りだと、段落をどう構成するかというのが一番参考になった。今まで段落をなんとなくで分けていたけど、トピックセンテンスを意識して必要ないことはひとつの段落に入れるなということで、(もちろん知っている人にとっては当然なんだろうけど) なるほどなあと思った。

他にも、普段気を付けていること (毎日このクソみたいな日記をつけることによって学びとった基本的なこと) も簡潔に纏めてあった。やってきたことに関して、とりあえずそんなに間違ったことを考えているわけではないと分って良かった。こういう本は場合によっては「お前は全く間違ったことをしているぞ」と言われかねないので、おそるおそる読むのだけれど、今回はそうひどいことは言われなかったように思う。

まだ十分生かしきれるほど飲み込めていないので、今後何度も読みかえす必要がある。というかもっと早く読んでいれば… と思った。

プログラミング言語については強く興味を持ち言語仕様を調べたりするのに、自然言語、例えば日本語についてはそんなに仕様を調べたりしないのは変だなとふと思った。

たぶん、間違いに気付きにくいことが大きな違いだと思った。プログラミング言語はコンピュータが解釈するから間違えているのが即座にわかるけれど、自然言語の場合、他人に読んでもらわないと間違いに気付かない。他人に読んでもらうというのはすごく敷居が高いしコストがかかる。そのうえ他人からの間違いの指摘というのは、コンピュータからの指摘と違って、大きく自尊心を傷付けられることがある。

さらに自然言語で特に母国語の場合、言語仕様について特に知らなくても運用できてしまう。なんとなくで使えて、なんとなく理解してもらえてしまうものだから、コンピュータ言語ほど厳密に書こうという動機が生まれない。

また、人間同士の場合、片方が理解しようとしている限り、コミュニケーションのコストをその片方に押し付けてしまうことができる。片方が伝える努力をしなくとも、片方が理解しようとする努力をしている限り、理解しようとしているほうに甘えてしまうことができる。コンピュータ相手であれば、コンピュータは理解しようという気がまるでないので、こちらが一方的に伝える努力をする必要がある。

人工言語であろうが自然言語であろうがコミュニケーション言語には変わりないので、もっと自然言語の仕様について敏感でもいいし、もっと伝えようと努めてもいいなと思った。

文章間の論理の繋りについての感覚がいまいちない。これは日記を書きはじめた当初からずっと感じていることで、なかなか改善しない。読みなおしてあれ?と気付ける範囲であればまだ改善ができるかもしれないけど、読みなおしてもわからないことがある。

「間違いがない」ことを証明できないと、間違いがあるかもしれないという不安からは解放されない。当然そんな証明はできっこないので、文章を書くときはいつも不安である。

サービス開発とか向いてないんじゃないか。

思い返してみたけど、事実として成功体験が少なく、別に過剰な思い込みによる勘違いではなかった。

自分が言う「成功体験」というのは、自分で考えて自分で作ったもの (行動) が正しく社会に認められることなんだと思う。このような承認欲求というのが、自分はそれなりに強いみたいだけれど、なんでそんなことになっているのか考えてみると、殆どよく解らない。実際は「成功体験」自体が全くないわけではないはずではあるものの、主観的には「失敗体験」による自信の喪失ばかりで「成功体験」は全然に少ないと感じている。

モチベーションを損う原因となるのは、行動の結果失敗することがありありと想像されることが大きくて、普段から何かにつけて、評価された結果「ダメだ」と言われることばかりが頭に浮かび、そのせいで、一度失敗した経験はすごく強い行動の抑止力になっている。それでもなお「全く何もしない」選択をせずにすんでいるときの要素は「自分で満足できればよい」ぐらい他人を信用しない心持ちと、「(仕事のように) やらないと恐怖が待っている」という危機感と、「解ってないのはあいつらののほうだ」という逆ギレのおかげかもしれない。

「承認済み」の人間が心の底から苦手でどうしようもなくて、全く関わりたくもないと思い続けている。とは言っても、どんなコミュニティでも一定数そういう人はいるものでそこはどうしようもないし、あるいな成功している (ように見える) 人には承認済みの人が多いので、これがまたうんざりさせられる事実のように感じられて、いつもすごくめげそうな気持ちになる。

「承認済み」の立場から発せられる言葉とか (特徴的な言葉遣いを)、声とか (特徴的な発声でする) というのは、あからさまに「自分は承認されています」という含みがあり「そんな言い方がアリなのか」とびっくりする。