長浜まで行ってきた。別に行きたい観光地があるわけではなかったが、長浜にいって歩いてきた。

ここ最近は、くだらないことでイライラはしても (結局のところうまくできない自分へのイライラに集約されている)、他人に対して強い憤りみたいなものが沸いてくることはなく、割と落ち着いていて、そういった、憤りによって書かれる何かしらとかもなかったけど、全く予想だにしないきっかけによって、ある種の想像力の全くない人達にまた一層強い感情を持ったりすることになって、健康に良くないので、どうにかして、その感情を封じこめ、またあとから参照可能なように、まわりくどく日記を書かなければならない。そういう、想像力のない人々の中に、自分も含まれていることにイライラしつつ、うまく自分でそれを解決できない、ないし解決して他人を幸せにできないことにイライラしつつ、なぜその想像力のない人間になるのか、それは解決できないのか、ということをいちいち全て考えてまわらなければならない。

そういった人達と一緒にいるときに抱く、イライラ感と、そういった人達に虐げられている自分の惨めさや、あるいはそれらを飛び越えたただの恐怖とかは、自分の中だけにあるのであれば、自分の耐久性と、自分の頭のスイッチの切替えをして、内的に解決して乗り切ればいいが、そうではないときは、どうにかして外的に解決する必要があるだろう。

実際のところ、全然猶予のないことであるのに、一体どこに安心が存在する余地があるだろう。一方で自分は何をやっているのだろう。何年も前からわかっていたことだ。もっと考えろ。だめなやつだと安心してはいけない。

想像力のなさは、俺の、言い訳が全くできない完全な失敗が含まれており、ことあることに思い出されることではあるが、誰にも謝ることができない。

全く、個人的な問題では一切ない。

自分の普段の生活、すなわち、会社と自宅を往復しできる限りのことをしたうえでインターネットをする生活、では (自分の望み通り) あまりにも想像力が欠落している人や、安心しきっている人とは殆ど関わりを持たなくなっていたので、自分の観測範囲ではその問題は結構解決してしまっていて、それが自分に余計な安心を生んでいるのだった。解決しなければならない問題は、もっと真剣に考えなければならない。問題がちゃんと意識できるなら、あとは解決するだけだ。よくよく

同じ過ちを繰替えさないように。恥なんてとっくに捨てているのだから、なんだってできるだろ。こんなクソ日記を恥も知らず書けるぐらいなのだから、本当になんだってできるだろ。しっかりしよう。ちゃんとしよう。

普段の自分に一切の誇りはいらないと思うが (それは単にくだらない意地や争いを生むだけだ)、仕事に誇りを持てないのだけは避けなければならない。まだ大丈夫だけど、変化の激しい業界は意識的にそれをしないと笑えないことになりそうだ。