今日は朝からずっとイライラしてしまった。低気圧のせい(他人のせい)にしておきたいと考える。

ある種の、ちょっと変わった程度のろくでもない属性 (例えばある学校とか、ある世代とか、ある地域とか) を自分にラベリングすることで、何らかの個性を出そうという気持ちがすけてみえている感じ、ただそれだけなら、まだ求個性没個性なだけで気持ち悪くとも害はない (無意味で、無個性な誇りだ) けれど、その大して価値のないちょっと変わった程度のろくでもない属性を守るために、他人に対して攻撃的だったり、排斥しようという感じになってくると、一体なんなんだろうという感じに見える。

こういうこと、他人に対し、内側から強い気持ち悪さを感じるときは、大抵自分の中に何かしらそういうものがあるときだ。じゃあ、どんな類に対して自分がそういった馬鹿げたことを思うかと考えてみると「○○な人はクソであって欲しくない」みたいに言葉にするとき解りやすく表に出てくるのかもしれないと気付いた。「プログラマは」「日本人は」「Perl が好きな人は」「あるアーティストが好きな人は」とあてはめてみると、自分の中からわさわさと出てくる。結局これでは人のことが言えない。

他人に対するイライラは、日記にまとめているうちに、自分の普段の行いによって相殺されるか、自分にふりかかる。日記に書いて落としこむ時点で、自分のクズさに要約される。

何かしら書いてしまえば一貫性を求められる。破れば糾弾されるから、矛盾には先に自分で気付かなければならない。日記は読みかえされないといけない。でも考えかたが変わったら変わったと書けば良いだけだ。強い口調は、他人の機嫌を損ねるというより、自分の逃げ道をなくすから良くない。

高校・大学と人間が心底嫌いになるばかりにコミュニケーション能力を得る機会の多くを失なって、いろいろと困ることになったということも、それによって他人のコミュニケーションの仕方を冷静に観察できるようになったのであれば別にいいような気がするけれど、自分で考えて造れる良いものが、殆どの他人の望むものとは違うという話であるなら、全くなんのこともなくて、自分が価値 (他人が必要とするもの) を生み出せないことにほかならない。

そういう気概で一体どうして何か造れようかと思う。

こういったこと、他人ではどうしようもないので、仕方なく、未来の自分である他人が楽しければいいと考えるしかなくなる。

何かしら日記に書いていると、明日誰かに責めたてられる気がしてならない。クソだクソだと誰かが言っている声が聞こえてくる。おれがどんなにそういう人達に重さを感じないように努めても、不意うちでも何でも、視界に入ったら終わりなのだから、いよいよ、書くことで損することは認めないといけない。当たり前すぎるけど、インターネットは全然安全ではない。