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α7R II の動画画角
デフォルトでは動画モードにすると自動的に Super 35mm になる。つまり画角が狭くなる。フルサイズスチル撮影からいきなり動画モードに入ると画角が狭くなるのでびっくりしてしまう。一方で、設定の APS-C/Super 35mm の設定を「切」にすることでフルサイズ画角になる。取説を読んでもわかりにくいが以下のような特徴がある。
- Super 35mm はオーバーサンプリングの全画素読み出しを行いプロセッサで4Kに縮小
- フルサイズの場合は画素加算(隣接ピクセルを1つのピクセルとして扱う)して読み出す
これにより基本的には以下の特徴がある
- 画質は Super 35mm が上
- 画角はフルサイズのほうが広い
Super 35mm モードは実質センサーサイズが変わり画角変化があるため APS-C / フルサイズと同様の特徴がある
- 同一画角なら被写界深度は Super 35mm のほうが深い
- 画角は元の焦点距離の1.5倍の焦点距離相当になる
ref.
電子先幕シャッターとは何か。欠点はどこか
αシリーズ(?)は電子先幕シャッターがデフォルトだが、デメリットがわかりにくいので調べた。
電子先幕シャッター自体の説明はググったほうがわかりやすいが、一応以下のように比較してかるく説明しておく。
シャッター方式はいくつかあって
- (フル) フォーカルプレーンシャッター: 一眼レフカメラなどに採用されている。物理的な先幕・後幕がセンサー前を走るもの
- 電子先幕シャッター:基本的にフォーカルプレーンシャッターと同じだが、先幕を電子的に行う (センサーの電荷をクリアすることで前幕とする)
- 電子シャッター (サイレント撮影):先幕も後幕も電子的に行う。先幕は電荷クリアで行い、後幕は連続した読み出しで行う
完全電子シャッターはレリーズラグがなく機械的に動く部分がないので静かなことが利点だが、センサー読み出し速度で律速されてローリングシャッター歪みが起こる欠点がある。
電子先幕シャッターは機械式フォーカルプレーンシャッターと電子シャッターの中間的な技術になる。ここまでが前提
利点
電子先幕シャッターの利点は、フルフォーカルプレーンシャッターと比べて以下の通り。
- 前幕のシャッターショックをなくせる
- レリーズラグの短縮
ミラーレスだとライブビューのためにシャッター幕が開きっぱなしなので、フルフォーカルプレーンシャッターを行おうとするとまず前幕を閉めないといけない。これはレリーズラグになるし振動を発生させる。
幕の振動はミラーの振動よりは少ないとはいえ、昨今の超高画素センサー・高解像度レンズではやはり問題になる。
欠点
説明書に書いてあることだが、電子先幕シャッターの欠点は
- 高速シャッターで絞り開放のときボケ像が欠ける
- 露出ムラがおこることがある
このふたつはフルフォーカルプレーンシャッターでも、電子シャッターでも発生しない、電子先幕シャッター特有の欠点になっている。
「なぜそうなるか」が説明書には書いてないので、これらの原因は想像しにくい。おおむね2つの要因がある
- センサー面(先幕面)とフォーカルプレーンシャッター(後幕面)が同一面に存在してないことによる
- 光線角度によってはセンサーが後幕の影になってしまう
- 先幕と後幕の同調のためにレンズ焦点距離などの情報が必要 (正確には光線角度など?)
説明書ではミノルタ製レンズで電子先幕シャッターが推奨されていないが、これは後者にひっかかるためだと思われる。
ボケ像の欠けはちょっと難しい。センサーに対して角度をつけて入射する光線が、後幕によって遮られることで起こる。高速シャッターの場合、前幕と後幕のギャップが小さくなるため、より厳しい条件になる。ちなみに前ボケと後ボケでは光線角度が逆になるため、欠けるになる位置が上下で反転する。
MC-11 などで純正レンズ以外を使うときはどうか?
純正レンズ以外だと電子先幕の露出ムラが起こりやすい。空を撮影するとわかりやすく上のほうが暗くなったりすることがある。
これは若干補正しずらいので (手動でグラーデーション補正が必要)、均等な露出の優先度が高い場合は電子先幕シャッターはオフとするか、電子シャッター(サイレント撮影)としたほうが良さそう。
優生学はどう否定されるか、多様性はなぜ必要か
行動遺伝学に関する本を読んでから自分の中でちょっとモヤモヤした点を整理した。
優生学ってのは現代だとタブーとして扱われている。しかしこれは部分的にはあっていて、一方で根本的に間違えている。
まず遺伝による能力の違いはあってこれは配られたカードに相当し変えることができない。人の顏の形と同じ程度に能力は遺伝していく。生まれたときから何らかの差があるのは否定できない。
では何が間違ってるかというと「優れた能力」という概念そのもの。「優れた能力」というのがあるという誤解。能力の優劣の判断は人間が行うが、この場合判断する人間よりも優れた形質や、まだ認知されていない能力、現在は必要とされてないが未来で必要な能力は無視されてしまう。
そういう人知を超えた遺伝子選択は理想的な社会 (当然今の社会ではない) でも自然に (自動的に) 行われているので、優生学のような形で人間が自然の判断に介入する余地はない。
そうはいっても能力は評価されるじゃないか
種の存続という意味で能力の評価は意味がない。一方、個は遺伝子によってある能力が律速段階となるのは間違いなく、そして個が生きているのは、現代であって「優れた能力」とされるものがあると信じられている。これは純粋に社会の問題なので個がどうにかできる問題ではなく「生きていくのがつらい」に対する答えは「どうしようもない」でしかない。
多様性を認める徳を養うには
徳を養うためには「優れた能力」があるという前提で考えるのをやめるのが前提になると思う。しかしすっかり馴染まされた考えかたなのでなかなか難しい。具体的な行動として習慣付けられなければ、つまり自然と実践できる形にルールを決めるしかない。
- そこに存在しているということは生存に有利な形質なのだと理解する
- 理解できないものは理解しようとしない。人知を超えて生存に有利な仕組みの上にあると理解する
他者理解とは全く逆のことをいってるみたいだが、わからないものを「わからないもの」として認めて置いておくのは、人生と理解力が有限なのでしかたない。ときどきあるけど理解できないことを「理解できない」といちいち言わないこと。
他人もそうだが自分という多様性を認めるのは難しい。自分の評価基準を正したとしても、何かにつけて現在の社会から受ける評価を自己評価に組入れることを要求されるので、誤った「優れた能力」という概念にいちいちつきまとわれることになる。