星の肖像というか、そういう自然を写すものは、大変日常的なことに溢れて存在している。僕の中で「自然に」というのは「自動的に」みたいなのとほぼ互換であると同時に「自動的に」のほうが具体的な言葉なので、もっと自然に生きよ、というのは、もっと自動的に生きよということだと感じている。(自然に生きよ、というのが良いか悪いかはともかく、というよりも「自然に生きよ」というフレーズに対して、そもそもどう生きようがそうだろうと思うので、懐疑的だけれども)

五感を研ぎすます必要がただあるだけだ。

そういえば、最初に伏見稲荷に行ったとき「なんで修学旅行でここに来ないんだ!」って思った。なんだか良くわからない衝撃をうけた。

それから何度か足を運んでいるけれども、毎回違う気持ちになる。山登って降りてくるか、途中でひきかえすか、別の道を行くか、とかいろいろあるので、おもしろい。

やろうとしていたことができなかった

今までちゃんと言葉にして意識はしてなかったのをちゃんと言葉にして意識するようにしよう。変数束縛

人間vs自然みたいな構図の考え方がやはりものすごく嫌いだ。人間は自然の中に含まれているし、人間だって意志を持ってるつもりで、殆ど自動的、すなわち自然だ。そんなくせして、人間自身が人間を特別視しているというおこがましさに苛立ちを覚える。

身近に自然の美しさなんてものはあるのだけれども (都会でも)、そういったものを見ないふりをしているのは、個性を求める没個性にイラ立つ感覚と全く同じだった。

やろうとしていたことができなかった

全く知らない土地を歩くのは不思議で、決して知らない風景について懐しさを覚えるのもそのうちであるけれども、それよりは、人がそこに住んでいて、おそらく自分とは違う生活の方法をとっていることを思うと、もはや想像できる範囲を超えてしまう不思議さになる。

そしてその土地がそんなに都会でないとなると、ごく小さいころは田舎に住んでいたことを思い出し、そこから動かずに今の年齢まで育っていたらどう生活していただろうと考えてしまう。

marble の旋律の行方、桜夢見月というCDがタワレコ新宿限定品になっていて残念すぎる…… 次実家帰ったときにいってみるかな

何を言っても無駄であるから、何も言わないのであって、どうでもいいわけではない。ジュウロクだかジュウハチだか過ぎた人間には、もはや外から直接的に何かを言っても無駄なのだ。だからそういう人に僕は反応を一切期待しないし、既にある何らかの明確に形になっているもの以外、意図的に考えないように最大の努力を払っている。裏をかえせば、自分がそうであるというだけで、あるときにふと大抵の人が本人の思惑や欲求のためだけに他人に何かをいっているのということが腑に落ちて、それからは一切他人の言うようなことを話半分で聞くようになったというだけだ。

観察するまでもなく、大抵の場合、ある人が自分を見下しているかどうかなんてのは、喋りかたでわかるものだし、喋らずとも言葉を使っている限りは、そう時間もかからずに分かるものだ。観察するまでもなく、というより、他人を見下すように生きている人のほうが多いのだから、とりあえずそのように考えておけばまず間違えたりはしない。