神社にはよく行くけれど、自身としてはあまり信仰心がない(仏教よりはあるかも)ので、御参りして形式的に2拝2拍1拝はするものの、2拍のあとに何も思わないことが多かった。願いがないというわけではなくて、いない神様にそれを祈るぐらいなら、口に出して人に言ったりして、直接行動したほうが願いは叶いやすいと思っているからで、つまりどちらかというと積極的に祈らないということです。翻って考えてみると、祈らない代わりにお参りする度に自分の中で行動を起こす誓いを立ている感じに近い。

しかしちょっと考えかたを変えて、全く自分の行動の影響が及ばないことについて、例えば単純に運でしかないものについては祈ることにした。それ自体に全く意味がなくても、ある種の、運のみに依存している理不尽さに対抗するために効果があると考えた。これは暗い小説を読むのと似ていて、暗い小説なんて読んでも何の意味もないどころか辛い気持ちになりがちだけど、場合によっては溜飲を下げたり、現実において自分のネガティブな行動を抑えたりする効果があるなと思うわけです。

神社によく行くのは、前にも書いたかもしれないけど、雰囲気が良いから(大抵街中でも鎮守の森があるし)というのと、建築が面白いからというのと、だいたいどこの駅で降りても歩けばあるし、散歩とか外出の目標地点にするにはちょうどいいからという理由です。目標地点がないと外に出ないので……

自分の考えかたの起源みたいなのに強い関心があって、つまりいろいろ自分の中に価値観ってものがあるけれど、それがどこ由来なのか、遺伝的によるものなのか、環境(教育、文化)によるものなのか、よく無駄に考えてしまう。

特に遺伝なのか環境なのかっていうのは、子供のころからよく考えることがあるけど、結局殆どよくわからない。

  • 掃除機の紙パックがない
  • 髪を切る必要がある