雑然としていて美しいというのは、なんか興味を惹かれるものがあって、天龍寺の庭とかがそうだと思うけど、ああいうのじゃなくても、ただ部屋の中を写した雑然とした写真でも、なんかこう、良いなあというのがあって、よく根拠がわからないけど、好きです。

REGZA Phone T-01C ネットで見る画像とかだと、メローボルドーがかなりビビッドで、ないわーと思っていたけど、モックを見てみるとかなり落ち着いた色で、しかも、表面も全体的にグレアかと思いきや正面以外はマット加工で大変気に入ってしまった。

REGZA Phone がそんなによさそうじゃなくて、LYNX 3D が在庫があったら、LYNX 3D を買ってもいいかという気持ちだったけど、REGZA Phone 予約しておいて待つことにした。(LYNX 3D はホットモックもあって触ったけど思ったより悪くなかった)

Galaxy S は買わないのかとか、そういう話もありますが、せっかく国内のメーカーが出してきたので、できればそっちを買いたいなあという気持ちがあります。ガラケーのソフトウェアの糞っぷりに嫌気がさして Nokia に機種変したのが2007年3月。Android が乗っている時点でソフトウェアに不安がなくなったので、大変に良い環境になったなあと思います。

「ユーザー視点」という言葉、割とひっかかりを覚えることが多くて、なんでだろうと数ヶ月考えていたけれども、ユーザーが喜べばなんでもしていいという、例えばユーザーを騙しきって金を盗ってもいいことの理由付けにいいように使われるからなのだと思った。

自分が正確にユーザー視点に立ちたいなら、ユーザーになるしかない。ならいちいち「ユーザー視点で」なんて言う必要性はどこにもない。他人に言うときも「ユーザー視点を持て」ではなく「ユーザーになれ」でいいんじゃないのか。想像力に余りがあるなら別だけど、そんなに想像力あるんでしょうか、別の部分に想像力を使ったほうがいいんじゃないでしょうか。

当然場合によるし、全うなコンテキストというのはあるけれども、そうじゃないときに、変に聞こえのいい言葉を使うのは嫌だなあと思った

「騙しきってユーザーが幸せならいいじゃん」という考えかたもありますが、すなわちそれは新興宗教と全く同じ理由付けですし、自分はそれにあまり同意しません。

日常的に満員電車に乗ったりするのはもうほんとまっぴら御免だし、あるいは週末に外に出れないような精神状態になるのも同じようにまっぴら御免なので、そういった僕が考える「健康で文化的な最低限度の生活」を維持しつつ、他の問題のことをも同時に解決するには、東京に住むというアイデアはコスト的にありえない、という見解です。

ジェーンと文乃さんには共通していることがあって、何かというと、どちらも最初は実際にいたらちょっと嫌だなあと思わせておいて、しかしよくよく馴染んでみるとむしろ実際にいたら大変なことになるなあ結婚してくれ!、というように感じさせる点です。

勝ち負けとか本当にくだらないなあと思うし、世の中が良い方向に向かわないことは、最低限したくないなあと思ってはいる。 (何もしなければ何にもならないわけではなく、何もしないことをしているというのも問題にされるので、この程度の消極的なルールも、実行が極めて面倒だし、もはや守れていないルールではあります)

積極的に負けていこうというのは常々思っていることなので、(僕の価値観において) 良くないことをして、あるいは間違ったことをして、勝った気になっている人には、その通りそう思わせておけば良いし、負け側も、いつか勝つことを夢見るのではなく、ただ単に負けを受けいれても良いのだと思う。社会がそれを勝ちとするなら、それでいいでしょうし、もはや社会がそうなりたいと、すなわち、社会が良くないことを受けいれて、社会が良くない方向を進みたいと思うのなら、誰にも止められないですし、つまらない人類が自滅するなら、それはそれで、願ったり叶ったりであります。