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読み終わった。結局二ヶ月ぐらいかけて読んでいてうける……
あらすじと結末を知った状態で読んでいたので、後半はあんまり面白くなさそうかな、と思っていたけれど、そんなことは全然なくて、後半における、リヴァーズ姉妹とジェーンの共感の流れ (要するに血縁の伏線) や、彼らが少ない親戚とわかったときのジェーンの高揚っぷりが、なんというか、生の実感を伴っていて、すごく良かった。
結末は暗さを残すもののグッドエンドっぽい終わりかたなので、悪い気はせず、だからといって、何もかもが良かったとはいえず、非常に好みにあっていた。
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日記を書くこと
日記を書き初めたとき、そもそも文というものが全く書けなくて、大変苦しい思いをしたことを思い出した。何度も「頭の中の言葉をそのまま書けば良い」と考えても、上手くいかなかった。実際のところ、そのとき自分の頭の中にあったのは、自分では言葉だと思っていたけれど、実際は言葉ではなくて、混沌とした、曖昧模糊な、言葉になる前の何かであった。思ったことをそのまま書くのは自分には難しいことだった。最初の日記は140文字よりもっと少ない、「何で書けないのか解らない」とか「すごく嫌な気持ちになった」といったことしか書くことができなかった (絞り出しても)。
その時、とにかくまともに書けないこと自体に大きく苛々したものの、自分の中の感情のプールの狭さにより、その溜ったものらは、どうしようもなく、どこかに出さなければならなくなっていたので、その気持ちと、少ない語彙の組み合せをいくつか試して、しかたなく一番ピンとくる言葉を使った。とはいえ、語彙の少なさのせいで、正確な表現にならなかったので、それはそれで「上手くいえないが、もっと、こういう」とか、その言葉を選ぶ過程で上手くいかなったこともそのまま書いていた。いやそれは今もそうだけれど、とにかく、できるだけ浮かんだ何やらは全部書くようにした。
日記を始めてから、何も書くことがない日があることに気付いた (別に毎日書こうと思っていたわけじゃなかったけれど、「何か書いておきたい」とだけ思ったとき、浮かんでくることが何もなかった)。考えていたことを全部書くようにしたのだから、何も書くことがないということは、何も考えていないということだった。自分、何か考えているつもりで一日過ごしたけれど、何も考えていなかった、というのを気付くことになった。恐しいことだったけれど、日記の効能の一つだった。
日記の効能というのは、いくつかあるとは思うが、他人の得になるものは大してなくて、あっても書いているときはそんな他人のことなんてのを考えていなくて、単にそれは公開して日記を書く言い訳のためのもので、普通のときはどうでもよいことだ。書いているときその瞬間は、そのときの自分自身のプール容量の確保がほぼ唯一重要なことで、未来の自分のためというのも、くだらないことを長々と書くことの言い訳程度に過ぎない。
- なんで日記なんて書くのか
- ムカついたことは書いとかないとずっと溜り続けて困るので仕方なく
- 考えたことは保存しておかないとすぐ忘れるので仕方なく
- なんで公開でやる必要があるのか?
- お前ではない誰かが困ったときに、同じように考えている人がいると解れば、多少安心できるだろうから
- 実際自分は困ったとき他人の日記を大量に読んで気を落ち着かせることをよくやる
- 誰かに多少解ってほしいと思うからどうしても
- お前ではない誰かが困ったときに、同じように考えている人がいると解れば、多少安心できるだろうから
- 公開でやること
- 大抵の人は自分に大して興味を持ってないので問題ない
- 自分は特殊な人間ではないただの平凡な人間であるのだから、殆ど誰も気にとめない
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別に嫌いとかじゃない人でも、30分ぐらい話すと面倒になってきてしまう。1時間経つとまた話したくなる。面倒。
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安心しきっているが想像力がある人と、安心してないが想像力がない人だと、どっちがいいのだろうと考えてみたけど、想像力がないのは人間的に終わってしまっているので、前者のほうだと思った。
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出張で東京だけれど、どうせ小田原で降りるので、ちょっと前に行ってみたいと思った川勾神社に行ってきた。まだ正月の装備なのだけれど、人が少ないので、奇妙な風景になっていて大変良かった。境内も美しいし、本殿は流造だけど、彫刻の装飾がついていて面白かった。
これで相模国の神社は一宮から三宮まで行ったことになる。
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構図のマンネリ化っす1!!
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あまり考えて行動してない
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偉そうなことを言ってても、手が動かなければクズだ。モチベーションを保ち続ける方法が欲しい。一時的なモチベーションによって早く手を動かせても、それよりは定常的にちゃんと手を動かせるほうが優れていると思う。
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なんか、よくないなあ。安心しているんだろうなあ……
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感受性をちゃんと高く保てれば、日常のあらゆることに何かしらの感情が宿っていることに気付けるはずなのだし、ともなって、被写体も見つかるはずなのだと、わかっているはずだ
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モノサシを別のものにしてみると、自分全く変わってなくて凹むなー……
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自分ものすごい臆病なので、それによって慎重に、あるいは保守的になるのだけれども、そうしてばかりではいられないこともあるので、何かここにもスイッチが必要そうだと思いました。しかしどこにあるのかわからない。
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すっと体に入ってきて、大変温かい気持ちになることがあって、それが内的に生まれてくるなら幸せは永く続くのだろうけれど、外的なので、そう上手くはいかない。また、ただ温かい気持ちになるだけでは、別に何か生まれてくるわけではないなと思ってしまって、それはそれで、辛いので、それだけがあっても、幸せにはならないのだなあと、しっくりと思ったのでした。
生産することは例に漏れず辛さも伴うものですが、一方で強いモチベーションを持ってそれを克服できているときこそ、より強い幸福感があるなあと、まぁ普通に考えて、あたりまえにことにあたりまえに気付いただけですが、その強いモチベーションを発火させるためのスキームが決まっていなくて、これは本当、早々にどうにかしたいのです。
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そういう意味では、自分は、幸せを感じるということよりもさらに重要視していることがあるのだということに気付きました。
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あらゆる収差がなくて、カメラという機械が無限の解像度を持つなら、望遠レンズは当然いりません……
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やる気がでるとき、というのをちゃんと分析してみることが必要。
コードを書くことに関して
- 問題が細部まで分解できていて、実現可能な道筋が全て示されている
- これは大変に難しい
- (自分も含めた) 誰かが喜ぶことが確定している
- 自分が喜ぶ、というのは簡単に確定させることができる
- 他人が喜ぶ、というのは殆ど確定できない
- 技術的に面白い
- つまり、スキルが向上すると、ある問題へのやる気はでにくくなる
どれもこれも実際にそうであるかよりは、そう信じられるか、という話なので、単に信仰の話である。
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遠くの人と他愛もない(ないしは切実な)話をできるという点で、インターネットは本当にすごい力があるなと思いますけれども、やはりそれをしていると、眼と眼をあわせて同じ空間の中でコミュニケーションをとることの強い力をいつもどうしても感じられずにはいられないです。
やはり、メールでも電話でもテレビ電話でもだめで、同じ空間にいる必要があると思います。
ずっとこう思っていたわけではなくて、かつては対面じゃなくてもいいだろと思ってましたけど、ここ数年でこのことは強く実感するようになりました。
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賑やかな孤独が最も恐しい
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風邪気味なので気をつけよう……
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やばいなー 実にやばい……
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字面通りに解釈して反発するフリをして、解ってやってて本心は別のところにある的な……
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なんか知らないけど書けないことが多い気がする。そんなことないはずなんだけどなあ……
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幸せになって欲しい人リスト的なの、おそらく普通の人は持ってると思いますが、勝手に幸せになってくれたらいいし、そうなりそうな人は別にいいんですけど、そうならなそうな人は、例えば第三者としてはどうすればいいんでしょうね……
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人生における個人目標と社会目標みたいなのがあると思いますが、後者のほうを考えています。
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このズームレンズ、ボケが不穏な感じでおもしろい
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消えない幻は既に現実 ← ぶわっっっっ
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人が死ぬ話よりは人が死なない話のほうが好きです。誰も幸せになってないエンディングよりは誰かが幸せになるエンディングが好きです。
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オチが素晴しいエンディングとしてはやっぱりクロノクロスが最初に浮かぶ。最終的に主人公主観では夢オチするので切なくありつつ、アホみたいに時間かけて女の子一人完全に救い出すのでじんわりくる。
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今日は午前中にちょっと頑張っただけで全体的に全くダメであった……
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本心は隠さなければならない、みたいなルールをなぜかいつの間にか持ってしまっていて不思議だと思います。子供ころからそうですし、多くの人がこのルールを持っているように見える。このルール、適用して良い結果を生むケースがあんまりなくて、実際は言っても誰も損しない(ないし自分しか損しない)ような本心はさっさと伝えたほうが良い結果になる……
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いくらか追い詰めてでも、自分は緊張感持たないといけない。気を抜いてはいけない。
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全くダメな人間なので、どうして自分が思ったように自分は頑張ってくれないのかイライラする。しかしこのように書くのもある意味誰かへの言い訳なのである。
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おれのやるべきことは技術的限界に挑戦にすることではなくて、メンテナンスしやすいコードを書くことのはずである。技術的限界への挑戦なんてのは、もっと頭の良い人が勝手にやる。バカはバカなりのことをしなければならない。最初にコード書く原動力となったのは何だったか? 頭の良い人が書いた、頭の良い人にしかメンテナンスできないように書かれた、内容は難しくないコードを見て、これなら自分で書きなおしたほうがマシだという気持ちではなかったか。
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本心を口に出して話せるのというは貴重だ。日記にどう書いたとしても、口からでる本心に比べると、全く本心ではないことを書くことになる。そういう相手がいるというのは幸せなことだと思う。でも口に出してしまえば何も残らず揮発していくし、また、口からは出せない本心もある。
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「無闇に安心している」ということを自分は嫌っている。何らかの受動的な幸せに甘んじているのもこれに入るんだろう。それもいいと思いつつ、直感的にはだめだと感じてしまう。そういった幸せはいつまでも続かないという気持ちから、一部それはきている。あるいは無能なやつや努力していないやつが幸せになるのは、他人でも自分でも許せないというような根本的に心が狭い考えがあってそう感じるのかもしれない。他人に対して表向き寛容であろうとしても、心の奥では不寛容な気持ちがいっぱいあるのだ。(好みでない)他人が幸せになろうが別にどうでもいいというのも本心の一つではあるのに……
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いやいや、そういうことを書きたいわけではなくて、単に、なんだろう……
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想像力と意志力が欲しい。結局この二つだ。
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梅が咲きはじまって春の予感があるということが、思ったよりわくわくすることに気付く。
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日本語だと文字単位 (拍単位) で音を認識するせいか、拍の間にある響きをあんまり意識しないけれど、思っているよりもこの部分の響きというか拍間の繋りというのはおもしろい。
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指輪という唄、完成度が高くて何度きいてもすごいなあと思ってしまう……
綺麗さ、みたいな感覚というのはいつでもついてまわっているけど、いつもその感覚ではずっとやっていけないし、そのことばかり考えているとうまくいかないことが殆どなので、何らかの妥協点が必要になってくる。一方では、そのように妥協し続けると全くろくでもないことになる。これだけは守ろうとかといった何らかの指標が必要。
コードを書くときも、綺麗に書くことを考えすぎて現実的なコードをなかなか書きはじめられないということがあって、今もちょっとずつ治しているので (綺麗に書くのが悪いというわけではなくて、動くコードを最優先にしようと)、他の部分にもちゃんと応用していきたい。
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全く、普段あまり話さないタイプの人と話したりすると、コミュ力の低さが浮き彫りになって、それを意識しだすとひたすら申し分けない気分だけが残る……