2006年 07月 09日

無題ドキュメント1

本来いろいろ何かを覚えたりするのって楽しいことなんだよなぁ。理解できなかった部分を少しずつ溶かしていく行為って、氷に圧力かけてその部分を早く溶かしたりするのと同じぐらい楽しい。例えが微妙すぎる。


学校って、ほんとに駄目な場所だと、ほんとに思う。「教えられること」って殆ど楽しくない。「教えられてしまったこと」は後で楽しいものになりにくい。普通、学校って、その「学校」っていう場所は選べても、教えてくれる人は選べない。間接的には選べるからいいっていえばいいんだろうけど、そのために使う労を、そのまま違う方向に使えたらいいのにと思う。まぁでも、本当に凄い人は、その程度の労をなんとも思わないのだから、もういいや。


コンピュータ関連のことって、殆どは独学可能なことだと思う。みんなそれぞれが、作ったこと、やっていることを公開してる。オープンソースプロジェクトは沢山あるし、ソース読むだけで、コーディング方法が学べる。パクったってライセンスを守っていれば誰も文句を言わないし、むしろよい動きと見てくれる。

プログラムの書き方の方言って言語ごとにかなり沢山あったりするけど、やっぱりデファクトスタンダード的な書き方はあるし、そういうのが往々にして「美しい」コードになる。でもそれって「流行」が混ざっていたりして、一定しない。例えば Perl の「どのモジュールを使うのがいいか」っていう感じ。これからはコレダっていう何かがどんどんでてくる感じ (DBIx::Class, Class::DBI とか)。

そういう流れの早さについていくのも、今ではその気になればそんなに難しいことじゃない。SBS なんかのホットエントリーをいくつか読んで、流行っているアプリケーションのソースを読んだらいい。今だったら Plagger とか、Catalyst 関連の動きを追っていると流れが見えてくる。(殆どソース読んでないけど)

で、そういう流れの早さが顕著だから、教科書みたいなものが作りにくい。絶対的に信用に値する分かりやすい教科書がなかなかないから、教員の言ってることがいまいち信用できない。結局自分で調べなおさないと、間違いを掴む可能性が割りと高い。教科書に載っているコードが今のトレンドにあっているか全然わからない。

それに、例えばウェブ技術はすごい早さで展開しているのに、教員はいろいろ忙しいからそういうことに気付けない。ついでにだいたい学校教員って「安定」しているから、そういう不安定な先端を走ることに興味が薄いみたいな感じがする。ステレオタイプかな。

考えれば考えるほど、学校に行っている時間が無駄に思える。しかし別の視点から考えると、学校に行くこともまぁ必要なのかもなぁとも思うし、なんともいえない。


「そういう」ばっかりだなぁ。日本語書けるようになりたい。

2006年 07月 08日

眠りながら考える

中身がどんなにくだらなくても、「何か」を感じていたいなぁと思うし、もっと感じられるようになりたいなぁと思うのですよ。だから、くだらないとか一蹴するのはできるだけ避けたいと、思う。


いろいろ考えてみても、どこをどう見たらいいのか全然わからないものがあって、そういうのにむしろ多くの人が惹かれているようなのを見て恐いなぁ・気持ち悪いなぁと思うことはすごくよくあるけど、そういうのをどう解消するかを考えている。生理的に受け付けない、みたいなもの。とりあえずスタンスとしては、一切言及しないということにしておきたい。ということにしておきたい。とりあえず、時が来るまで無視しておく。あとでよさに気付いたら言及してみたらいいかとか。先に「これはだめだ」って言ってしまうと、あとでよさに気付いたとき「撤回」っていうやっかいな手続きをとらないといけない。めんどうくさい。

しかしやたらルビがついたアレなのは読めない、たぶん読めるようにならない、という矛盾。クリティカルポイントとか。いやあれはある意味ではだいぶ楽しかったから、全然ほんとに素晴らしいものだと思うけど皮肉じゃなくてさ?


というよりも、何も感じなかったり、くだらないとしか思えないものって、実は自分が「感じられない」だけなんだなぁと、最近思うから、むしろ「これはくだらない・つまらない」と言う事は、相手を貶めるようなことではなく、むしろ「自分はこんなにも感受性がない」といっているようなものな気がして、恥ずかしい。


すんごいいろいろ矛盾していて気持ち悪い。なんだかんだいって「これはひどいww」とか言うしなぁ。雑魚すぎだからなぁ。

2006年 07月 07日

ステレオタイパー

幅広い視野ないし全てのことをステレオタイプ無しに見て評価できる人は尊敬できるなぁ。好きな何かに対して「信仰」レベルにならず、好きなまま批判できる人や、どう考えても「くだらない」ことから、新しいことを見出したりできる人。

全部最初から決まっている

全部最初から決まっているっていうのと、全て可能性で無意識の働きかけによってどうにでもなりえる、みたいなのが一緒になってる。なんでもいいけど、全部最初から決まっているっていうのも、全て可能性で、の場合の一つの解にすぎないような気がする。

2006年 07月 03日

分離, だるさ

なんかだんだん、分離していくんだよね。例えば Shibuya.js で喋っているときと、それらから帰るときや、家にいるとき、学校にいるときっていうのが、すっごく離れている気がして、混乱する。

どこにいるときに一番正しいことができるのかっていうのがわからない。「正しい」っていうと大袈裟だけれど、他に表現が思いつかなかった。だめだ。

大学は出ないといけない。単位をとって卒業しないといけない。先生の評価を稼がないといけない。そういう点で、やるべきことをやるという点で、課題をうまくこなすのは「正しい」ことだと思う。そして俺は課題をうまくこなせない。全く。全然。そしてやる気さえでない。微塵も。なんであんな、見下されながら、媚を売るような真似をして単位をとらないといけないんだ。

対して、エンジニアの人たちとあって、お話させていただいたりするのは、やりたいことをやるっていう点で、こういうのは「正しい」行為だと思う。

でもなんかその間にすごくギャップがあって、というか結局のところこれは「やるべきことを優先してやる」のが正しいのか「やりたいことを優先してやる」のが正しいのかっていうことで、「やるべきことができないヤツは人間のクズ」と「やりたいことをやれないヤツは生きてる価値なし」っていう、ほんとどっちなんだよってキレたくなるような問いなんだけど、あーもうわからん。


「やるべきこと」かつ「やりたいこと」で、「やりたい」が勝る状態っていうのは、自分の場合、十分に簡単で、見通しが立っている、付随する何かも含めて結果的に自分にとって「楽しい」ことが多いって場合だけだと思う。「やるべきこと」じゃない場合はこの限りじゃない。いくらでも難しいことに挑戦することは可能だし、見通しが立ってなくてもいい。結果を出すことを要求されないから、途中で挫折できる安心感がある。

「やるべきこと」はそのタグだけで大きな減速要因なのです。そして、お金が絡むと絶対に「やるべきこと」が発生するので可能な限りお金をからませたくない。もちろん十分に簡単で、見通しが立てれればいいのだけれど、今の自分の力では、そこまで簡単なことが殆どない。力をつけないといけない。

綺麗なものを作りたい。

自分の中で絶対的に綺麗だと思えるものを作りたい。

2006年 07月 02日

なんかいろいろ

なんかすごく思ったのだけれど、エンジニアの人とお話するのはめがっさ楽しい。なんでだろう。

なんかちょっと思ったのだけれど、鶴屋さんを見てるとめがっさ楽しい。なんでだろうって、言うまでもない。


やる気なさそうに見えるのは誤解です。やる気まんまんです。

って書いておくと叩かれにくいって教わりました。教わってないです。人のせいにするのが特技です。日々劣化してく純粋回路です。

いやでもやる気はホントにありましたよ!


SleepyPresentation が結構重いことに気付いた。しかしもうちょい綺麗なプレゼンツールを作りたい。

HTML ベースだと画像とか、文字の色とか入れにくいよなぁほんと。


というかホントにいろいろすいません。

こう、家に帰ってくると一人反省会とかしはじめて眠れないよね。反省してないんだけどさ。


興味を失わないように。

2006年 06月 25日

もっと、カタチのあるものを作りたい

カタチのあるものを全然作れない。うーん。

プログラムより、ちゃんと物理的に形が見えるのを作りたい。

2006年 06月 10日

表現

それが表現である限り、表現者が見えてこないと面白くない。ただの商品であるか否かの境界がそのへんにあると思った。なんとなく。でもただの商品が悪いわけじゃない。消費されて残らないだけで、瞬間いいと思えるならそれはそれでいい。役目が違うから

変にメッセージメッセージした歌とかが苦手なのは、本人たちが何を考えてそれを言っているかあまりに不明なことが多いから。別にメッセージメッセージさせなくったって、事柄をたんたんと言ってくれればいいのに。その事柄にリスナーが何を感じようとリスナーの勝手だ。そういうのを強くコントロールしようとする姿勢がなんかにがて。


デザインの怖いところは、それが明確なメッセージをもっていて、しかも気付かないうちにそれを内に入れてしまうところだと思った。作りたいものを感じたまま作ったものじゃなくて、メッセージによって作らされた、みたいな。よくわからないけど

メッセージっていっても周囲の空気とか環境が伝えてくることは柔らかくなっていていいんだけどなぁ。自分から出た何かが、環境に反射して、自分はそれを観察して、表現になる、みたいな。時間がかかるけど、熟考に必要な時間だと思う。環境は少し前の自分の反射だから。そういう手順が踏まれず、押し付けがましい感じがでるのがだめだ。


だからまぁ、こんなことは書くべきじゃなくて、押入れに詰め込んでおいて、隙間から出てくる溢れたものをすくうべきなんだろうなぁ。それができない時点でだめすぎる。

Play a role

だいたいのことは目の前にあるものだけれど、理想的に可愛い女の子というのは存在しない。なぜかといえば、そもそもそんなもんないからで、それを求めて、夢の世界に戻るからだ。夢の世界に生きていながらいくには寝ればいい。


人間ごっこがいつ終わるかというのはまさに死ぬときで、おそらくそれ以外にない (もしかするとあるかもしれない)。今重要なのは「人間ごっこ」をしっかり「人間ごっこ」と認識して行動するということで、それはすなわちこのクソつまらない日々をどうにか楽しく感じるような心と体になることと同一である。決して楽しい日々に好転させることではなく、クソつまらないことを、それさえ面白いことだと思えるようになること。

しかしながらそれは、例えば楽しそうな高校生活を送ってきたある人間が少し現実に気付いて愚痴の一つでも洩らし周りのやつらに励まされているような情景を見て、ばかみたいに笑ってしまうのとはまた違うのだ。なんで俺はコンピュータに向かって必死に命令文をうちこむようなことをしていたんだろう? というかしているんだろう?


ほんとに、なぜだろうって何時も思うけど、自分だけじゃなくむしろこれは普通で、そういう意味ではマジョリティであるってことぐらいは分かっている、と思う。

客観的に見たら、どう考えても俺は恵まれた境遇にある。ただそこにあるものと求めるものが少し違うだけだ。でも、あまり文句を言える立場にない。もっとひどい人たちはいるから。それと、ただたんに幸せな情況っていうのはありえない (周りがそうさせないから)。気を抜くと悪意が入ってくる。