きたる 7/10 に docomo から Android ケータイがでるので機種変 (+ キャリア変更 SB → Docomo) をしたい。が、まじでめんどいのでメモ……

名義の関係で MNP を利用できないっぽくてとても困る。名義人との距離がありすぎるので、本人確認書類の原本を安全に借りることができない…… (SSH/SCP できればいいのに) 前に帰ったときに名義人変更しとけばよかった。

なのでやるとしたら

  • 新規契約して旧番号を連絡先にしている機関に手続しまくって旧番号を捨てる
    • 現実的じゃない……
      • 会社・金融機関・住宅・友達・あとなんかあったっけ
  • 二重契約にする
    • 既存のケータイをホワイトプランオンリーにして 980/month にする?
      • 緊急用にしか使わないケータイを維持し続けることになる (最低でも2年ぐらいは……)
      • ないなー
  • 7/10 を諦めて次に実家に帰ったときに名義変更・MNP 手続きをしてくる
    • 8月に帰るつもりなのでこれが一番現実的かなぁ

ケータイのメールで起こされる夢をみた。なんか女の子からメールがきて、とても切ない気分になった。ふと時刻をみると昼の11時で、「やばい、遅刻だ!!!」

というところで現実にガバッっと起きて、急いで時計を確認したら、午前4時

本当にコード書くのが遅くて困る…… もともとプログラムを早く書くのが得意とはいえないが、それにしてもひどいだろう。気が落ちている。

Scala で書いてる個人的なアプリケーションは、今月中にどこかでリリースしたいなぁ。書こうと思ってから数ヶ月経っているわけだし…… しかし仕事も詰まってる。

仕事で Perl, JS, AS と書いて、個人的に Scala, Ruby をそれなりに書く生活が続いてる。飽きなくて良い。それぞれ良いところ、使い所があると思う (好き嫌いはあるけれど……)。


僕は最近 Scala が結構いいと思っていて、なんでかっていうと

  • 変数に型がある。コンパイル時にそれなりに考慮される (安全)
  • 必要以上に型を書く必要がない (型推論)
  • 既存の資産の上に乗っている (Java)
    • Java のクラスはいまいち使い勝手がよくないけど……
  • 関数型的にも、オブジェクト指向的にも書ける (TIMTOWTDY)
    • 逆に、Scala のコードを全てちゃんと理解しようとするならどちらも知ってないといけない
  • implicit def
    • 安全なオープンクラスのようなもの

あたりが気にいってる。十分に書きやすいなら、型がついていたほうが安心できていいし、Java という巨大な既存資産を無駄にしない姿勢が好きだ。

一方で、LL として使おうとするとちょっとやりにくい部分もある。

  • コンパイルが遅い (かなり遅い)
  • 正規表現リテラルがない
    • メタキャラクタをエスケープするかしないかでとても重要
    • """regexp""".r とか書きたくない
  • LL なら普通はあるようなメソッドがない。あるいは名前が違う
    • replace (search:Regex, replace:(Matcher => String)) みたいなのとか……
    • List#join 的なものは mkString という高機能なものになっている
  • scaladoc がダメすぎる
    • 書きなおそうと思ったら scaladoc がそもそもビルドできなかった……

簡単なスクリプトを書くような分野には向いてないと思うけど、軽めのウェブアプリケーションとかだとちょうどよくて、Java と LL の中間ぐらいにピッタリとハマる言語だと思う。

また女生徒読んだし……素で泣くし……

ぼくの親程度の世代だと、インターネット日常でつかうようなことがないので、インターネットの技術がいくらプッシュな技術であっても、全く意味がない。コンピュータを開いて、なんかするっていう、能動的にプルする行動が必要だ。

そういう意味で、手紙、郵便、電話は、まだしばらくは、最強のプッシュ技術なのだと、ウェブフックなんていう少々不毛なことをやりつつ考えた。

  • 松尾大社
  • 洛西竹林公園
  • (六孫王神社)

どっちもとても遠かった…… 松尾大社は距離的には上賀茂と同じぐらいっぽいけど、四条通りをひたすら西にというのがとてもだるかった。鴨川は楽しいけど、四条通りは退屈だからなぁ……

その後、ひたすら桂川を下って竹林公園へいったけど、こっちは結構登った場所にあるので自転車だと大変だった。16時すぎの入園時間過ぎについてしまったけどオマケして入れてもらった……

松尾大社、盤座まで行きたかったけど、独りではだめらしいので諦めた。

リア充の人達は、こちらが些細なことで強烈な不安感を抱くというのをいいことに、ちょこちょこと、世間からはとがめられないようなことを大量にして、こちらのバッファを溢れさえ、殺そうとしてくる。

バッファを全て埋めるほどしなくとも、バッファをある程度埋めてやりさえすれば、徐々に処理能力は落ちていくし、そうなると、処理落ちに対する不安によって勝手にバッファが埋まっていくようになる。簡単である。

洛西竹林公園は、思ったより広くなかった。ただ、その周辺 (竹の径 (みち)) というのがとても広範囲だった。

竹林も、神社と同じように、いつも、どこで見ても、懐しい感じがする。

考えてみると、よく自分の夢には竹林がでてくる。たんぼだらけの田舎で、竹林がある。近くに、山に入る道があり、そこを入っていくと、小さな神社がある。よく見る。

となりのトトロのバス停のイメージが近いけど、今調べてみたら、あれは竹林ではなかった。何が発端でそういう懐かしさを抱くのかよくわからない。

竹林は、すごく安定した、守りを感じる。こういうのは、深めていくと信仰になるのかもしれないが、竹林信仰というのは聞いたことがない……

近頃のディスプレイは解像度高いから、写真のサムネを 700 か 800 にしてもよさそうだなぁ → 700にしてみた。fotolife、オリジナル画像が存在する写真のサムネを現在の設定でつくりなおすコマンドがほしい。

昨日は伏見稲荷大社へ。前にいったときは、何もない平日の、何もない夕方で人が殆どいなかったけれど、今回はそれなりに人がいた。今日、明日と祭らしく、その準備もしていた。

前と同じ道を辿ってもしかたがないので、一般的な参道をはずれたほうの道をいってみた。竹の下道・弘法の滝のほう。ただ、結構しんどくて、サンダルでいけそうな感じでもなかったので途中でひきかえしてきた。

途中、外国人観光客な人に写真をとってくれ的なことを言われた。英語圏でもないっぽかった。「なんて言ってシャッターきればいいんだ?」と悩んだ。

昨日は、なんか新しいところに行きたい気分ではなかったので、頭を使わずだらだらと賀茂川を上っていくだけでいける上賀茂神社へ。適当にぼーっと境内をまわり、帰りに下鴨に寄って帰ってきた。下鴨では御手洗 (みたらし) なんちゃらな祭をやっていて賑わっていた。そういえば経団連会長って御手洗 (みたらい) だよなぁとかどうでもいいことを考えた。

上賀茂神社の境内に「沙瑛の楓」とかいうのがあって独りでウけてた。ちなみにひだまりスケッチのさえさんの字は沙英なので微妙に違う。あれ、なんの由緒も書いてないけど、なんで沙瑛の楓なのだろう……ぐぐってみたけどよくわからなかった。

なんとなく一昨日も昨日も広角ズームのみを持ってでかけたけど、被写界深度の感覚が狂うので大変だった…… 帰ってきて現像してみるとピントがあってて欲しい部分までちゃんとピントがあってないことが多々ありまくった。広角なので普段より絞る必要ないだろ、って思ったらそうでもなく、収差の影響かなんかで結構ひどかった。レンズのこともよくわかってないし、画角的にも慣れてなくてめんどくさい。

金銭ベースでモノゴトを考えると、マイノリティへのメッセージというのは、そうでない場合に比べて金にならないので、価値がない事になってしまう。結果、既にずいぶんと良い思いをし、金を十分に持っている人がさらにいい思いをし、そうではない人達は少々そこから溢れたものを拾うだけで、ただ、差が広がっていくだけになる。

溢れものでもマイノリティの役に立てばいい、というのもあるけど、幸せというのは絶対的なものではないので、結果差が広がるならば、それは失敗であると思う。

混乱をきたして攻撃的になっている。ひきこもりたい

カアは、悲しくて、いやだ。可哀想で可哀想でたまらないから、わざと意地悪くしてやるのだ。カアは、野良犬みたいに見えるから、いつ犬殺しにやられるか、わからない。カアは、足が、こんなだから、逃げるのに、おそいことだろう。カア、早く、山の中にでも行きなさい。おまえは誰にも可愛がられないのだから、早く死ねばいい。

これまでの私の自己批判なんて、まるで意味ないものだったと思う。批判をしてみて、厭な、弱いところに気附くと、すぐそれに甘くおぼれて、いたわって、角(つの)をためて牛を殺すのはよくない、などと結論するのだから、批判も何もあったものでない。何も考えない方が、むしろ良心的だ。

本能、という言葉につき当ると、泣いてみたくなる。本能の大きさ、私たちの意志では動かせない力、そんなことが、自分の時々のいろんなことから判って来ると、気が狂いそうな気持になる。どうしたらよいのだろうか、とぼんやりなってしまう。否定も肯定もない、ただ、大きな大きなものが、がばと頭からかぶさって来たようなものだ。そして私を自由に引きずりまわしているのだ。

やれ生活の目標が無いの、もっと生活に、人生に、積極的になればいいの、自分には矛盾があるのどうのって、しきりに考えたり悩んだりしているようだが、おまえのは、感傷だけさ。自分を可愛がって、慰めているだけなのさ。

お父さんが、いなくなったからって、こんなにも卑屈になるものか。情なくなって、何も言えなくなっちゃった。帰って下さい、帰って下さい。私の父は、立派なお方だ。やさしくて、そうして人格が高いんだ。お父さんがいないからって、そんなに私たちをばかにするんだったら、いますぐ帰って下さい。

いまのあの子に泣きながら慕われているその「おねえちゃん」を羨しく思うのだ。私にだって、あんなに慕って甘えてくれる弟が、ひとりでもあったなら、私は、こんなに一日一日、みっともなく、まごついて生きてはいない。生きることに、ずいぶん張り合いも出て来るだろうし、一生涯を弟に捧げて、つくそうという覚悟だって、できるのだ。ほんとうに、どんなつらいことでも、堪えてみせる。

人生、限られた時間しかないのだから、使うに限度があるお金をどう得るかではなく、一時間・一日をどう生きるかのほうが重要だ。でも、どうしたらいいかよくわからない。がむしゃらに何かやったって意味がない、リア充は途中からそれら全てを奪っていくから。

嬉しさの指標がなくなっている。褒められても嬉しくない、自分が満足していないからだ。嫌味なのではと穿った考えをしてしまう。素直に受け取ればいいのだけれども、どう考えてももっといいものがあるし、いいひとがいる。

日記も書けないようでは人生終わりだ

カアは、それなりに生きていける程度ではあるが、生きていくのが難しい犬である。あの時点での、若い世代への答えであると思う。

そういえば、上賀茂の式年遷宮が21年なのは、神職の人もよくわからないといっていた。たぶん職人の負担を軽減するために伊勢とずらしてあるのだろうといっていた。

そういえば伏見稲荷大社近くの歯科のマークがおもしろかった。

何をやるにしても、見当もつかないような方法で、優れたことをする人がいて、そういう人には、決してかなわない。上に人がいて、追っ掛ける気になるなら、それはとても楽しくて、よいことなのだけれど、追っ掛ける気もなれないほどに、離れていれば、そういう気もなくなり、立ち尽すしかない。

気概を持ってとりくめなければならない、気骨を持ってないのはだめだと、しばしば聞かれることだけれど、そんなこと、「そうじゃない」と、否定する人はまずいないだろう。「その通りです」と、「仰る通りです」と、思って聴くけれど、どうすればそういう心になるかは、全く聞かされない。本人達も、一種の才能によって、それを実現してきたわけだから、伝えられない。そのくせに、他人には、結果的にできたこと、「おまえらとは違うのだ」といわんばかりに、教訓めいたことは存分にいう。

しかし時々、とてもうまく言葉を使いこなす人がいて、そんな人は、上に書いたような、わかりきったことをただ繰り返して、却って他人のやる気を奪うようなことではなく、淡々と事実だけを、飾らずに言葉にして、「それでいいなら、自分にできそうだ」と、やる気をわかせてくれる。ただし、そういう人は極めて少ない。

人とできるだけ関わりたくないが、そうもいかない。思うことをいっていると、他人樣のやる気を奪う結果になる。全くよくない。そう思っても、たびたび何もかもどうでもよくなり、他人のことを全く考えずにいるようになる。

昨日は鞍馬寺 (由岐神社) → 貴船神社にいってきた。雨がふったりやんだりする、なんともいえない天気で、行こうかどうか悩んだけど、行ってよかった。鞍馬山にいる間、短時間に晴れたり豪雨になったり繰替えして、面白かった。かえって得した気分だった。狙って晴れの日、雨の日に行くことはできるけど、こういう天気は滅多にない、雨、雨上がり、曇り、晴れ。

鞍馬寺とかは、普通に山登りだった。山登りって、今まであんまりいい経験がなかったんだけど、今回は見るものすべて美しく感じたので、テンションあがりまくって、疲れた気分にさえならなかった。足はガクガクいっていたけど「なんでガクガクいってんだろう……」とか頭で考えてた。

貴船神社あたりは、川床の店がたくさんあった。本社のほうでは七夕飾りをやっていたので、僕も「フミにご縁がありますように」と書いてきた。短冊とかたぶん小学生か中学生以来すぎて独りでウケてた。ちなみに「フミ」は、コード (プログラミングは文芸だと信じています) とか、日記とか、文乃さんとか、文江さんとか、そういうのです……

なんというか、貴船あたりは時代が違うような錯覚に陥いってしまい、洋服ってなんか違和感あるなぁとかいうレベルだった。雨でリアルなコントラストが強かったせいかもしれない。

とにかくまぁ、昨日は、肺一杯に良い空気を吸いこんで気分がよかった。空気は記録に残せないし、行って価値が絶対にある。そして「緑」というのは、やっぱり眼で見ないと、確実な色ではないなぁと感じた。

あのへん、秋になったら本当に紅葉がすごそうだなぁと思った。そうでなくても、普通にまた行きたい。昨日のような天気であっても、それなりに人がいたから、普通の日はかなりやばそうだなぁと思った。

ディスプレイの輝度落として作業すると彩度をあげすぎたり、さげわすれたりする。。

下り坂にみえる錯視みたいだ

突き当たり、右です