写真関係で得た知識やら技術とかもできるだけ明文化していきたいが (表現そのものとは独立しているし)、とはいえ、どう書いていいかよくわからない。

いくつかやりようはあると思っていて、例えば、一切の主観を省いて、客観的な組写真で周りの詳細にすることで、あるモノの輪郭を写しだすっていうのは、なんか現代的な人らがよくやっている (文学ではもっと昔からあるけど) し、面白くないとは思わないけど、あんまり自分でやろうとは思わなくて (たぶん、キャッチーさがないからだ)、ちゃんと眺めることができつつ、詳細なものがやりたいという感じがする。

最近ジェーン・エアという小説を図書館で借りてゆっくりながらも読んでいて、久しぶりに読書の楽しみを思い出している。全体的に静かに話が進んでいくのが好みだし、主人公が現代的で (現代から見ても) 先進的な性格をしていることに好感が持てるし、節々で非常に気持ちの良い人間がでてきて面白い。

──けれどもわたしは、この世には、もっと別な存在、もっといきいきとしたよさがあることを信じ、わたしの信じたものを見届けたいと思った。

誰がわたしをとがめるであろうか? 疑いもなく多くの人々がとがめることであろう。わたしは不平家と呼ばれるであろう。けれどもわたしは、どうしようもなかった。わたしの性質には、じっと落着いていられぬものがあった。ときおり、それがわたしを騒がし、苦しませた。そんなとき、唯一の救いは、三階の廊下を歩きまわって、そこの沈黙と寂寥に包まれ、眼前に浮ぶかがやかしい幻想に心の目を注ぐことであった

『ジェーン・エア (上)』C・ブロンテ 大久保康雄訳

まだ上巻の半分ほどしか読んでないけど、上記引用部分がなんとも響いて感動した。現代ではもう少しこの主人公は生きやすいだろうし、ないしコミュニティによっては歓迎されるだろうけど、160年前はそうもいかなかったのが強く感じられる。といっても、160年経っても、やはり「とがめる」人々は生き残っていることを感じ、なんとも不思議な気持ちになる。

訳も変な感じがしないし、気持ちよく読めるので良い。頑張って最後まで読もう。

ジェーン・エア (上) (新潮文庫) - C・ブロンテ

C・ブロンテ

3.0 / 5.0

TODO

  • ハードディスクを買う
  • 靴下買う (なんでなくなるんだろう?)

土曜日は、というか金曜日はいつのまにか寝てしまっていて、次の日7時ぐらいに起きてしまった。起きてすぐ、なんとなく書きたいコードが受かんだので適当に書いてサブテクに上げて、その後どこに行こうかと考えた末、神社TODOに入っていた廣瀬大社龍田大社に行くことにした。

読み途中の本を家に忘れて取りに帰ったりしたけれど、12時ぐらいに法隆寺駅について、そこからまず廣瀬大社へ行った。駅から割と遠かったが、晴れていて散歩にはうってつけであったし、朝早く起きれた気分がまだ継続していたので大変気分良く歩いた。

廣瀬大社の参道に入ると、定間隔で落葉が燃やされており (あれはなんだったのだろう)、煙がもやもやと漂っていた。参道の木々から漏れる光が煙を照らして、光の路ができているのが綺麗だった。本殿は春日造で、奈良っぽかった。参道を歩くといくつか摂社・末社があって面白かった。

その後、そのまま龍田大社に行ってもよかったのだけれど、せっかく法隆寺の近くまで来たので、法隆寺にも寄り道してみようと思い、法隆寺へ行った。法隆寺はたぶん修学旅行で行ったことがある気がしたが、殆ど覚えておらず、かすかに法隆寺の壁のある道の風景を覚えているぐらいだった (あるいは勘違いかもしれない)。自分はあまりお寺には興味がないので、楽しめないかと思ったが、思ったよりも楽しめた。八頭身の百済観音 (木彫りの彫刻) は大変かっこよかったし、思ったよりも人が多くなく、静かで、冬らしい感じだった。

そのまま法隆寺近くの斑鳩神社 (天満宮) に行ったり、龍田神社 (このあと行く龍田大社とは別) にも行ったりした。

それから法隆寺駅に戻り、三郷駅まで電車に乗って、龍田大社まで歩いた。龍田大社は紅葉がいくらか残っていた。境内は人が殆どおらず、厳粛だった。本殿は遠くてよくわからなかったがたぶん春日造だった。

時間があれば春日大社や、平城京跡になんとなく行ってみてもいいなと思っていたけれど、法隆寺が思ったより面白かったのでそんな時間がなくなった。

ジェーン・エア、上巻が読み終わった。ジェーンが「ロチェスター氏はわたしのことが気に入っているのでは?」から「そんなことはない! とんだ思い違いだ! 愚かなわたしめ!」となる一連のシーンは、ジェーンの、他人の感情に鋭敏なところや謙虚で意志が強いところが出ていて、非常に可愛らしくて良かった。

ミラーレス一眼悪くないと思うし、一眼レフをある程度置き換えるだろうけど、サイズや重さをのぞけば一眼レフはミラーレス一眼の上位互換なので、アナログからデジタルへの移行みたいに完全置換にはならないだろうなあと思った。

撮りたい写真とは別に、写真撮るときの、被写体を感じてから、見て、カメラを構えて、ピントをあわせて、呼吸をおいてシャッターを押すときの感覚は割と好きで、これは、腹の底に溜ってるぐでぐでしたものを、うまく外に出せるスキームとしては自分の中で唯一確立しているもので、そのために、そういったものが溜っているなあと感じると、シャッター押す回数自体が増えます。

日常的に満員電車に乗ったりするのはもうほんとまっぴら御免だし、あるいは週末に外に出れないような精神状態になるのも同じようにまっぴら御免なので、そういった僕が考える「健康で文化的な最低限度の生活」を維持しつつ、他の問題のことをも同時に解決するには、東京に住むというアイデアはコスト的にありえない、という見解です。

ジェーンと文乃さんには共通していることがあって、何かというと、どちらも最初は実際にいたらちょっと嫌だなあと思わせておいて、しかしよくよく馴染んでみるとむしろ実際にいたら大変なことになるなあ結婚してくれ!、というように感じさせる点です。

勝ち負けとか本当にくだらないなあと思うし、世の中が良い方向に向かわないことは、最低限したくないなあと思ってはいる。 (何もしなければ何にもならないわけではなく、何もしないことをしているというのも問題にされるので、この程度の消極的なルールも、実行が極めて面倒だし、もはや守れていないルールではあります)

積極的に負けていこうというのは常々思っていることなので、(僕の価値観において) 良くないことをして、あるいは間違ったことをして、勝った気になっている人には、その通りそう思わせておけば良いし、負け側も、いつか勝つことを夢見るのではなく、ただ単に負けを受けいれても良いのだと思う。社会がそれを勝ちとするなら、それでいいでしょうし、もはや社会がそうなりたいと、すなわち、社会が良くないことを受けいれて、社会が良くない方向を進みたいと思うのなら、誰にも止められないですし、つまらない人類が自滅するなら、それはそれで、願ったり叶ったりであります。

「ユーザー視点」という言葉、割とひっかかりを覚えることが多くて、なんでだろうと数ヶ月考えていたけれども、ユーザーが喜べばなんでもしていいという、例えばユーザーを騙しきって金を盗ってもいいことの理由付けにいいように使われるからなのだと思った。

自分が正確にユーザー視点に立ちたいなら、ユーザーになるしかない。ならいちいち「ユーザー視点で」なんて言う必要性はどこにもない。他人に言うときも「ユーザー視点を持て」ではなく「ユーザーになれ」でいいんじゃないのか。想像力に余りがあるなら別だけど、そんなに想像力あるんでしょうか、別の部分に想像力を使ったほうがいいんじゃないでしょうか。

当然場合によるし、全うなコンテキストというのはあるけれども、そうじゃないときに、変に聞こえのいい言葉を使うのは嫌だなあと思った

「騙しきってユーザーが幸せならいいじゃん」という考えかたもありますが、すなわちそれは新興宗教と全く同じ理由付けですし、自分はそれにあまり同意しません。

雑然としていて美しいというのは、なんか興味を惹かれるものがあって、天龍寺の庭とかがそうだと思うけど、ああいうのじゃなくても、ただ部屋の中を写した雑然とした写真でも、なんかこう、良いなあというのがあって、よく根拠がわからないけど、好きです。

REGZA Phone T-01C ネットで見る画像とかだと、メローボルドーがかなりビビッドで、ないわーと思っていたけど、モックを見てみるとかなり落ち着いた色で、しかも、表面も全体的にグレアかと思いきや正面以外はマット加工で大変気に入ってしまった。

REGZA Phone がそんなによさそうじゃなくて、LYNX 3D が在庫があったら、LYNX 3D を買ってもいいかという気持ちだったけど、REGZA Phone 予約しておいて待つことにした。(LYNX 3D はホットモックもあって触ったけど思ったより悪くなかった)

Galaxy S は買わないのかとか、そういう話もありますが、せっかく国内のメーカーが出してきたので、できればそっちを買いたいなあという気持ちがあります。ガラケーのソフトウェアの糞っぷりに嫌気がさして Nokia に機種変したのが2007年3月。Android が乗っている時点でソフトウェアに不安がなくなったので、大変に良い環境になったなあと思います。

上記写真にて写っているのは母親です。

あのー、我々人間なんです。すなわち、あなたと同じですよ。

今年は約5588枚撮ったようだった。手元に残っているのは1800枚ほど。昨年は約4146枚撮って2800枚ぐらい残ってる。今年は撮る枚数自体は増えたけど、消した枚数が多かった。10000枚撮ろうというのは無理があるようだった。

Canon 望遠ズームレンズ EF70-200mm F2.8L IS II USM フルサイズ対応 -

3.0 / 5.0

そういえば、土曜日にこれを買った。ちょっと自分が買うには高額すぎるので、どうかと思ったけど、レンズ買って貧乏になるならまぁいいかというのと、100mm が予想外に気持いい画角で、もうちょい望遠側にも興味が沸いてきたりした。事前に調べた感じだと、結構冷たい描写をする印象だったので、結構遠くから、冷静に、誰かいた感じを描写するにはいいのかもしれないと思った。

カメラ 890g + レンズ 1490g で 2.3kg なので、片手だと結構重いけど、MacBook と同程度なので、まあこんなもんかというのと、これがぎりぎりだなあぐらい。

土曜、日曜とちょっと撮った感じだと、撮ってるときは 100mm MACRO を買ったときの感動ほどはなくて、これはどうしたもんだろうと思ったけど、実際現像してみると面白いのでまあいいかな、という気持ちになった。とりあえず、できるだけ 200mm 側で固定して使ってみたけど、ふと立ちどまって画角決めると100mm前後になってしまうので、意識的に使わないとあんまり意味ない感じになりそう。

直前まで 50mm F1.2 と悩んだりした (やっぱ 50mm の明いのが欲しいというのがある) けど、50mm は言っても 1.4 あるしいいかと諦めた。

長浜まで行ってきた。別に行きたい観光地があるわけではなかったが、長浜にいって歩いてきた。

ここ最近は、くだらないことでイライラはしても (結局のところうまくできない自分へのイライラに集約されている)、他人に対して強い憤りみたいなものが沸いてくることはなく、割と落ち着いていて、そういった、憤りによって書かれる何かしらとかもなかったけど、全く予想だにしないきっかけによって、ある種の想像力の全くない人達にまた一層強い感情を持ったりすることになって、健康に良くないので、どうにかして、その感情を封じこめ、またあとから参照可能なように、まわりくどく日記を書かなければならない。そういう、想像力のない人々の中に、自分も含まれていることにイライラしつつ、うまく自分でそれを解決できない、ないし解決して他人を幸せにできないことにイライラしつつ、なぜその想像力のない人間になるのか、それは解決できないのか、ということをいちいち全て考えてまわらなければならない。

そういった人達と一緒にいるときに抱く、イライラ感と、そういった人達に虐げられている自分の惨めさや、あるいはそれらを飛び越えたただの恐怖とかは、自分の中だけにあるのであれば、自分の耐久性と、自分の頭のスイッチの切替えをして、内的に解決して乗り切ればいいが、そうではないときは、どうにかして外的に解決する必要があるだろう。

実際のところ、全然猶予のないことであるのに、一体どこに安心が存在する余地があるだろう。一方で自分は何をやっているのだろう。何年も前からわかっていたことだ。もっと考えろ。だめなやつだと安心してはいけない。

想像力のなさは、俺の、言い訳が全くできない完全な失敗が含まれており、ことあることに思い出されることではあるが、誰にも謝ることができない。

全く、個人的な問題では一切ない。

自分の普段の生活、すなわち、会社と自宅を往復しできる限りのことをしたうえでインターネットをする生活、では (自分の望み通り) あまりにも想像力が欠落している人や、安心しきっている人とは殆ど関わりを持たなくなっていたので、自分の観測範囲ではその問題は結構解決してしまっていて、それが自分に余計な安心を生んでいるのだった。解決しなければならない問題は、もっと真剣に考えなければならない。問題がちゃんと意識できるなら、あとは解決するだけだ。よくよく

同じ過ちを繰替えさないように。恥なんてとっくに捨てているのだから、なんだってできるだろ。こんなクソ日記を恥も知らず書けるぐらいなのだから、本当になんだってできるだろ。しっかりしよう。ちゃんとしよう。

普段の自分に一切の誇りはいらないと思うが (それは単にくだらない意地や争いを生むだけだ)、仕事に誇りを持てないのだけは避けなければならない。まだ大丈夫だけど、変化の激しい業界は意識的にそれをしないと笑えないことになりそうだ。

食べもの屋さんに入るのが強烈に苦手で、狭い空間で店員にじろじろと見られたうえ、思われた結果を釈明できない感じになるのがすごく苦手だ。なので、食事がものすごく保守的になりがちである。治したいというか、気楽にお店に入れるようになりたい。

_why という、なんというか、すごく存在感のあるアーティストがいたけど、去年に、一切合財のリソースを消去して忽然と消えてしまったのを思い出した。恐しいことだと思う。インターネット上でしか繋りのない人に関しては、そのように、ある日突然、我々にとっては死んでしまうようなことが起こる。(そういう、何もかもが消えてしまう、というわかりやすい方法ではなく、単に何もアウトプットがない状態になったりしても同じだ)

何か思ったより、やらないといけないことが溜っていて焦る……

問題の多さよりは、ここ数日頭を悩ませている、普通の人なら解決が簡単であろう問題は自分をかなり厳しい心持ちにさせる……

すごく簡単なことなのに上手くできなくて日常的に困るのは

  • 食べ物屋に入れない
    • こわい
  • 美容室に入れない
    • こわい
  • プレゼントを選べない
    • 何を選んでもダメな気がしてしまう
  • 人と会う約束をできない
    • 何が難しいかわからないが難しい

もっと割り切りが必要なんだろうなあ。重要なことをちゃんと優先できれば、正確な行動はできるはずだ。

酔わなくてもできるし

開放からシャープなレンズは存在するし、と思ったところで表示が404になり (ブクマ非表示ユーザのダイアリを開くと 404 になるスクリプトを使っている) 読めなくなったのでそっとタブを閉じた。読む必要のないエントリがわかって便利。

秋に夏の写真というのも良いものです

今年写真を撮ってわかったことで、一番重要なのは、モノの正面をちゃんと見よということだと思った。写真撮るときにひねくれて撮ってもしょうがない。

今年はギリギリになって、仕事とは関係ないけれど、かなり(自分の中では)チャレンジングなことをすることとなった。切っ掛けは外部要因だが、その切っ掛けを持って強く意志を持ったまま行動できたのは、たぶん今年一番に良かったことだった。内容的にも、反省点はいくらでもあれど、悪くはなかったと思えたので、そういう成果の点でも良かった。

今回は、いくつかの外部的なことが重なったおかげのことで、直接的には全く関係なくとも、自分の中では特定の人物にかなり助けられた場面があり、直接的に関係ないのでそれについてお礼を言えないのがもどかしいが、なんとか別の形でおかえしをしたいものだと思った。